45項目 手掛かりの行方


「……おはよう、周」



 土曜日の朝、俺が早めに朝食の準備をしていると、あくびをしながら朱夏が起きてきた。



 その顔は、まだ半分夢の中にいるのか、完全に瞼が開いていないし、髪もボサボサ。



 ……まさに、無防備とはこの事と言えよう。



 俺は、そんな彼女の姿を、知らぬ間に脳裏に焼き付けてしまっていた。



 ……すっかり、信用しやがって。



 これから、俺がどうなるかの気持ちも知れずに……。



 それが嬉しくて、悲しくて、思わず、そんな事を思った。



 すると、彼女はまじまじと眺める視線に気がつくと、顔を真っ赤にした後で、「ボコっ! 」と俺に蹴りを入れた。



「……な、何をジロジロと見てんのよっ! 」



「……うっ! 」



 臀部に耐えがたい痛みが生じて膝をついていると、彼女は恥ずかしそうに洗面台の方へと逃げて行った。



 ……ち、ちくしょう。あの暴力女。



 とは、今更、思わなかった。



 それよりも、こんな当たり前の"時間"の終わりが"すぐ近づいて来ているのだな"と言う気持ちが物理的な作用以上に、心に傷をつける。



 ……しかし、すぐに忘れようとした。



 今日は、とてもとても大切な用事があるから。



 朱夏を、元の世界に帰す為に。



 感傷的になっている時間など、残されていない。



 だからこそ、今日は絶対に手掛かりとなる場所に向かわなければならないのだ。



 ……"例のアンティークショップ"に。



 以前、あそこで読んだ中二心をくすぐる"古文書"。



 そこに記されていた『これから元の世界に帰る』という言葉が事実ならば、間違いなく方法はある。



 ……きっと、あの本を読み返せば、手掛かりが……。



 俺はそう思うと、すっかり顔を洗って髪を整えた"綺麗な朱夏"と対面すると、朝食を摂り始めたのであった。



「今日は、読み進めているラノベの新刊を買いに行くから、朱夏も気分転換に"何処か"に行ってくると良いよ」


 彼女と距離を取る為、そんな提案をする。



 だが、その言葉を聞くと、朱夏は俺の狙いとは"正反対"に、目を輝かせた。



「って事は、"横浜駅"に行くって事かしら! それなら、私も色々と服とか見たいし、一緒に行きましょうよ! 」



 ……まずい。このままだと、ついてくる。



 正直、二人っきりでお出かけが出来る事に関しては、かなり嬉しい。



 しかし、ここは心を鬼にしなければならないのだ。



 ……夜桜漆枝さんとの約束を守るために。



 だからこそ、小さく首を振る。



「……いや、今日はどうしても一人で行きたい。理由は、たった一つ。……実は、今回購入しようと思っている作品は、かなり"エッチ"な内容だから、一緒に行くのは恥ずかしいんだ」



 我ながら、あまりにもしょうもない言い訳。



 ……でも、彼女はその類の耐性が少ないのを知っているからこその苦肉の策だ。



 すると、朱夏は予想通り、"エッチ"というワードを聞いた途端、顔を真っ赤にした。



 ……その後で、トーストを持つ手を震わせながら、こんな罵詈雑言を浴びせる。



「……あ、朝から、何を言ってんのよっ! この変態っ! ばかっ! そんなに、い、いやらしい本が読みたいなら、勝手に行ってくれば良いじゃないっ!! 」



 明らかに爆発する彼女の姿を見て、ホッとした。



 ……よし。かなり強引な手口ではあったが、予定通りに別行動を取れそうだ。



 俺はそう思うと、とりあえず一安心。



 だって、朱夏を元の世界に帰す為にアンティークショップに行くなんて事実、決して伝えられないし。



 今の彼女は、きっと、その事を望んでないだろうから。



 ……でも、俺はもう決めたんだ。



 ラノベの世界で、幸せを掴んで欲しいって。



 そんな覚悟とは裏腹に、胸の中を哀愁が埋め尽くそうとした所で、朱夏は急にしおらしくなった。



 それから、ジロジロと上目遣いをしながら口を尖らせた。



「……本当に、用事はそれだけ? もしかして、女の子と会おうとしたりしてないわよね。例えば、"空ちゃん"とか……」



 彼女は、恐る恐る探る様な態度で、妙な事を尋ねて来た。



 ……なんで、このタイミングで豊後さんなんだ?



 最近、彼女の父とは毎日、お互い情報共有する為、メッセージのやり取りをしているが。



 後輩の方は、連絡先すら知らない訳だし。



 とはいえ、何故か不安そうにしているのが気がかりになったので、いきなり"意味不明"な問いかけをする朱夏に、俺は否定をした。



「俺にそんな関係の女の子がいる訳ないじゃんか。ましてや、豊後さんに関しては、最近、少し距離を取られてる気がするわ。だから、誰とも会わねえよ」



 そう事実を告げると、彼女は一瞬だけ、「そっか……」と呟いた後で、小さく微笑んでいた。



 続けて、すぐに、いつも通りの振る舞いに戻る。



「……じゃあ、つまり、アンタは今日、ただただ"エッチ本"を買いに行くだけなのね! ほんっと、"変態"は許せないわっ! まあ、男の子だから仕方ないし、目を瞑ってあげましょう! 」



 なんだか、とてつもなく不名誉な称号を手にしてしまった。



 しかし、何とか"妥協"を得られた。



 だからこそ、俺は今日行動する予定に対して、気合を入れた。



 ……じゃあ、リサーチを始めるか。



 この当たり前の存在との"別離"のために。



 俺はそう思うと、一瞬だけ表情豊かな朱夏に見惚れた後で、足早に準備を始めるのであった。



 "大好きだ"という、変わらない気持ちを抑え込んで……。



*********



 横浜駅に辿り着くと、俺は脇目も振らずにアンティークショップに向かった。



 メイン通りから一本裏の路地にあるその店は、相変わらず、華やかな街とは裏腹に、静かな佇まいをしている。



 ……それがまた、怪しさを演出しているのだ。



 まあ、そんな事はどうでも良い。



 今は、何よりも朱夏の事だけを考えよう。



 俺はそう思うと、一つ深呼吸をした後で、ゆっくりと入店したのであった。



「いらっしゃい」



 ……中に入ると、以前と同じで客は一人もいない。



 居るのは、前回と同様、やる気のない"店主"のみだった。



 まあ、それは良いとして……。



 俺はそう思うと、記憶を頼りに、多くの古書が並べられた本棚の方に向かっていく。



 相変わらず、中二心をくすぐるラインナップとなっている。



 しかし、前回来た時とは違い、俺の胸が湧く事はなかったのだった。



 ……今日、ここに来たのは、朱夏の"未来"の為なのだから……。



 俺はそんな現状に深い悲しみを抱きそうになる。



 ……だが、すぐに首を振った。



 いかんぞ。いつまでも引きずってんな。もう、決めたんだろ? 朱夏の幸せを何よりも願うんだって。



 すっかり自分の"女々しい部分"を否定すると、俺はこの前に展示されていた"例の古文書"を探した。



 ……確か、分かりやすく『非売品』と書かれた上で、表紙が飾られていて……。



 ……あれ? ここにあった筈なのに。どこにもない。



 それから、幾ら探しても、古文書は見当たらなかったのだ。



「……えっ? なんでないんだ……? 」



 俺が思わず呆然としながらボソッとそう呟くと、それに気がついた店主はあくびをした後で嫌々こう問いかけて来た。



「なにか、お探しで? 」



 その言葉に、辿々しくこう返す。


「この前、ここに展示されていた"日記の様な非売品の古文書"が、どこに行っちゃったか分かりますか……? 」



 恐る恐る、確認を取る。



 すると、彼は何故か、首を傾げた。



「……さあ、何を言っているんだい? そんなモノ、知らないよ。ここに置いてあるのは、全て、売り物だよ 」



 ……素っ気なく告げられたその言葉を聞いた瞬間、俺の頭はおかしくなりそうになる。



 なんで、だ? と。



 確かに、この愛想の悪い中年店主が、俺に"あの異世界について言及された古文書"を閲覧する事を許してくれた筈。



 にも関わらず、今、彼は『知らない』とハッキリ言い切った。


「い、いや、この前、来店の際に、確かに"この目立つ場所"に飾られていたんですけど……」



 動揺を隠せずに、改めて説明をする。



 ……しかし、必死の形相を見た彼は、俺の"頭がおかしい"と判断した様だった。



「悪いけど、冷やかしなら帰って貰っても良いか? 」



 面倒くさそうに、そうあしらわれると、俺は絶望した。



 何故ならば、間違いなく"古文書"は、朱夏が帰還する上での手掛かりだったから。



 もちろん、記憶の中には鮮明に残っている。



 だからこそ、俺はあれだけ悩んだのだから。



 すると、そんな気持ちで途方に暮れていると、彼は、もう一度、俺にこう告げたのであった。



「……変な事には巻き込まれたくない。だから、帰ってくれ」



 そんな痛烈な言葉を前に、何も言い返せずに俯いた。



 「は、はい……」



 だからこそ、重い足取りで店の出口へと向かって行ったのであった。



 ……一体、何が起きているんだ?



 その出来事は、朱夏との思い出としてハッキリ覚えている筈なのに。



 それに、最近の俺は、おかしい。



 よく考えている内に、"古文書"と出会ってから悩みを解決するまでの間で、"何かの重要な立ち直るキッカケ"がスッポリと抜け落ちている事に気がつく。



 あの時、確かに、俺を苦悩から救ってくれた"人物"がいたような……。



 ……しかし、全く思い出せない。



 まるで、記憶という名の一冊の書から"数ページ"を破り捨てられてしまったみたいな錯覚に陥る。



 その事も考えると、途端に、強い"違和感"を感じた。



 まるで、思考を溶かし尽くしてしまうみたいに……。



 そして、俺は結局、何の手掛かりも掴めなかった自分に落胆しながら、店を後にした。



 ……希望など何もない、木造の扉を。



 ――――だが、その先にある光景を見て、衝撃を受ける。



 重い身体で引いた扉の先には、まるで、俺を待ち構えていた様に、"一人の女"が立っていたのだ。



 ……彼女は、ジーッと俺を見つめている。



「か、会長…………? 」



 思わず、ボソッとそう呟く。



 すると、制服姿の風林生徒会長は、俺の驚く姿を前に、ゆっくりと近づいて来た。



 ……その後で、こう呟いたのであった。



「悪いけど、今から付いてきて欲しい……。大切な話があるから……」



 俺は、彼女の突然過ぎる提案を、呆然とした顔のまま、素直に受け入れた。



 いや、受け入れざるを得なかったんだ。



 何故ならば、彼女が店主の記憶から抜け落ちた、"例の古文書"を抱えていたのだから。



 それが意味する事。



 すなわち、俺が最近感じる"違和感"や、朱夏がこの世界にやって来た"理由"についての証拠を、"風林さん"が確かに持っているとしか考えられない。



 だからこそ、何も疑う余地もなく、俺は一瞬だけ消えかけた"心の燈"を再び燃やすと、小さく頷いた。



「俺も、あなたに聞きたい事が沢山あるので」



 その言葉に無表情で頷く会長は、何も言わずに足を進めた。



 こうして、俺は、朱夏を物語に戻す為のヒントを掴むために、"重要人物"とのやり取りを開始するのであった。

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