君と春風
大出春江
君と春風
朝の五時。
早寝早起きとは縁のない私が、珍しくこんな時間に目が覚めた。
ふと、窓の外を見る。
三月の下旬、降り積もった雪が徐々に溶け出す頃。去年の丁度今頃に、この北の大地に越してきたのだと、少しだけ当時を懐かしんだ。
「おや、起こしてしまったかな? 」
ドアを開けて入ってきたのは彼女、新橋桜だった。
「いやいや、こう見えても私は早起きなんですよ」
「それならよかった」
穏やかな顔をしながら、見透かしたような目で彼女は言った。
「コーヒーでも飲むかい? 」
「いただきたいですね」
ここまでの流れを想定していたかのような手際でコーヒーを持ってくる。
「インスタントコーヒーのブラックになります。どうぞ、お召し上がりくださいませ」
コーヒーは好きでも嫌いでもない。いや、もしかしたら、紅茶のほうが好きかもしれない。ただ、彼女が飲むものだからついつい私も一緒に頼んでしまう。今では、深い苦みも、口に残る酸味も、どこか愛おしく感じる。
「ありがとうございます。インスタントとそうでないものの違いはわかりませんが、あなたが淹れてくれた一杯と感じると、これ以上のものはないでしょう」
彼女は少し自慢げな顔をして、それから窓をちらりと見た。
「私はこれから散歩にでも行こうかと思うのだが、よければどうかな? 」
「もちろん、同行しますよ」
コーヒーを飲みながら天気予報を確認する。
『今日は一日晴れの模様。寒気は停滞して防寒対策は必須』
厚手の服に着替えて、その上に軽くコートを重ねる。
このくらいの防寒対策が私にとっては塩梅がいい。
グイっとコーヒーを飲み干した。
「それじゃあ行こうか」
ブーツを履いて一歩外に出る。
そこに一面の雪景色はない。
溶け出した雪の塊に車なんかが跳ねた泥の跡。ずっと雪の下に潜んで水を吸った土と、すっかり萎れてしまった草花。水たまりの表面は凍り、そこらには霜柱が立っている。
「どこまで行きます? 」
彼女に問いかける。
「なんとなく公園までかな、帰りにコンビニに寄ろうか」
散歩にもかかわらず、なぜ行き先を真っ先に聞いたのか。
そもそも、私も彼女も、理由もなく散歩に行くような人間ではない。何かしらの理由があって初めて動き出すのだ。そんな彼女が散歩に誘ってくるということは、そこに何があろうが、乗らないわけにはいかないのである。そこまで理解したうえで好奇心を抑えきれなかった私は、つい行き先を聞いてしまったのである。
彼女は少し足早に歩きだした。
ザクザクと、溶けかけた雪の上を歩く。
時々、数か月ぶりに顔を出した道路の上を歩く。
道路はところどころ雪解け水であふれているので、また雪の上に戻る。
水が流れる音、雪の香り、強い日差しを感じる。どこか、真夏の木陰にでもいるような、そんな感覚さえある。そんなことを考えると、途端に冷たい風を強く感じて「まだ、冬は終わらないぞ」と、背中を叩くようだった。
近所の公園まで到着したが、ここまでお互いに一言も交わしていない。というのも、やはり、彼女の挙動に違和感を感じずにはいられないからである。妙にそわそわした様子で、歩幅も普段よりやや広い。もともと、ツカツカと歩く様な人であるものの、今日の歩き姿は「ズカズカ」といった印象で、やはり落ち着きがない。視線も斜め下で、顔も見えない。公園についたころ、それさえ一瞬気が付かなかったようで、驚いたようだった。
「飲み物でも買いますか? 」
そう彼女に尋ねると
「いや、その、ちょっと待ってくれ」
と、そう返すので、お互い背中合わせになり、ぼんやりと空を見ていた。
これから何を切り出すのだろう。そう考えていると、私自身も不安を隠せていないように思えてくる。
彼女が大きく息を吸う。
私も合わせる。
冷たい空気を肺に押し込んで、吐き出す。
「実は、ね」
彼女が呟く。
「実は、もう少し早く切り出そうかと、そう思ってはいたのだけどね。まぁ、見ての通り、私という人間は緊張に弱いらしい。しかし、これも君という人間が「罪な人」であるからして至って当然の結果とも言えなくも……ない」
そこまで話すと口ごもり、ほんの一瞬、静寂が流れた。
彼女はゆっくりと私の前に回り込む。
顔は赤く染まっていた。
「御託を並べるとは、野暮だったね」
コートの内ポケットから何かを取り出し、押し付けるように渡してきた。
「これは? 」
「マフラーだ」
「いいんですか? 」
「そのために編んだのだから」
ほっとした。ただただ、ほっとした。
「二か月ほど前には、もう編みあがっていたのだが……」
そういうと、やはり口ごもる。
「君も知っての通り、事前のイメージトレーニングやらシミュレーションやらを大切にする人間だろう? 私は」
彼女も私も、考えに考え抜いてから発言するような人間である。実際、お互いにそれが分かっているからこそ、ここまで気が合うのだと、そう思う。
「それで、だ。それを編みながらずっと考えていたのだよ」
「考えていた? 」
「どう渡すかを、ね」
貰ったマフラーを手に取って、巻き付ける。
深い緑色、温かい。
お互いに満足そうな顔をして、自販機に向かう。
「そこで、「罪な人」の出番なわけだ。……正直なところ、事前のシミュレーションで想定できないことなんてのは、この人生でいくつもあった。しかし、それでも、迎える結末の、方向性とでもいうべきかな? それはなんとなく感じ取れた」
自販機につくと、彼女はコーラを買って渡してきた。
私はココアを買って彼女に渡す。
「ただ、君が、わからなかった。……私が君に手編みのマフラーを渡すとき、どんな形がベストなのか、どんな反応を返すのか、このイメージが全くできなかった。そこで、一体なぜなのか、考えたのだよ」
手のひらでココアの缶を転がす。上下を返す。振ったと思ったら、私の頬に押し当てる。
「君、敬語をよく使うだろう? 加えて、大きく喜ぶ様子をあまり見せない。私を慕ってくれるのは嬉しいのだがね。君という存在を、想像以上に把握しきれていないことに、どうにもヤキモキとして、中々苦労したよ」
ここまで聞いて、感づく。
「そこで、思い出したのだよ。初めて会話した時のことをね。君はギャップに弱かったような……とね。それも、腕に嚙みついた犬に腕を押し返した時のような、茨の中の一輪のユリの花みたいなギャップだ」
家を出てから今に至るまで、彼女のぎこちなさからナナカマドのように赤くなった顔、見事なブラフだったことにようやく気付く。
「バレましたか」
「バレるさ」
「見事に、弄ばれましたね」
「君も楽しかったろう? 」
「それは、そうです」
フフッと笑みをこぼす。
お互いに飲み終えたところで、ゆっくりと帰路につく。
「ところで、なんですが」
「なんだい? 」
ふと気になった疑問を投げかける。
「敬語、やめたほうがいいですかね? 」
高校からの付き合いで、交際二年目にもなるのに、やはり少し硬いだろうか。
「まぁ……、いいんじゃないかな、君は君のままで」
「そんなもんですかね」
「そんなものさ。君のその誠実さは今のまま、大切にしたほうがいい。……ま、気が向いた時でいいさ」
彼女がそういうのなら、そうしよう。
風が吹く。
雀が羽ばたく。
「あたたかいものに触れていると、どうにも、より一層寒さを感じていけないね」
「ココアじゃないほうが良かったかもしれませんね」
「いや? 」
「ココアでなくとも、あたたかいのだよ」
「あたたかいどころか、湯気でも出そうですね」
街路樹に芽生えた蕾を横目に見る彼女の顔は、先ほどよりも赤く感じて。
北風に、春風を覚えて。
君と春風 大出春江 @haru_0203
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