第5話
◇
微かに川のせせらぎがどこからともなく聞こえてくる。
さらさらとう音でリズが目を覚ますと、そこは薄暗い部屋の中だった。
後頭部の痛みに表情を歪めながらもゆっくりと頭を動かす。
ここは一体どこだろうか。辺りを見回しても何の手がかりも掴めない。室内はロープや薪、樽が積まれているだけで人が生活している様子はない。屋内外共に人の気配はせず、小さな窓からは木々が見えるだけ。どうやらどこかの物置小屋に閉じ込められているようだ。
次に視線を下に向けてみると、両手首には楔の形をした鉄の鎖が巻き付けられていた。
それ以外の拘束は特にされていない。だが、頭が痛くて思うように身体を動かせない。
一先ずリズは状況を整理することにした。
(……ええっと。私はどうしてこんな状況に陥っているのでしょうか?)
夢と現実の狭間でリズはぼんやりと考える。
やがて、気絶する直前に見たドロテアの恐ろしい顔を思い出して意識がはっきりと覚醒した。
「そうです、私は豹変した叔母様に殴られて意識を失ってしまったのでした」
厨房でドロテアにフライパンで殴られた。あの誰にでも親切で優しいはずのドロテアに。
(私、叔母様に何かしたのでしょうか……。濡れ衣を着せられて断罪された件に関しては大変迷惑をかけてしまいましたが、それ以外で怒らせるようなことをした覚えはありません)
いくら考えても、敵意剥き出しの彼女にフライパンで殴られた理由の答えが出ない。
先程から妙な胸騒ぎを覚えるが、まだ現実を受け入れられていないリズは何かの間違いだと自分に言い聞かせる。
すると、閂が外れる音がして扉が開いた。
外から射す眩しい光にリズが目を細めているとすぐに扉が閉められる。中に入ってきた人物はゆっくりとこちらに近づいてきた。
「あらあら。リズベットはもう起きてしまったの。もう少し眠ってくれていてよかったのに」
頬に手を当てて冷徹な瞳でこちらを見下ろすのはドロテアだった。
「叔母様、どういうことか説明してください。あと、これを外して頂けますか?」
「やあよう。下級妖精たちが助けに来られないよう、彼らの苦手な鉄の鎖を巻きつけているんだもの。外したら意味がなくなるじゃない」
リズベットったら相変わらず馬鹿ね、とドロテアは口元に手を当てて含み笑いをする。
リズには彼女の意図がまだ分からない。
「叔母様は私を断罪の窮地から救ってくださったのに、どうしてこんなことをするのですか?」
「窮地から救ったですって?」
ドロテアはアハハッと高笑いすると、側にある樽に腰を下ろして優雅に足を組む。それから、不愉快そうに口元をへの字に曲げた。
「リズベットったら相変わらず脳天気だこと。私はあなたを窮地から救った覚えはないわ。寧ろその逆よ。あなたには死んでもらうために私が聖杯をわざと壊したの」
「っ!!」
リズは声を呑んだ。
父が死んでからは親代わりとなって、大切に育ててくれたあのドロテアが、簡単にリズを切り捨てて殺そうとするなんて到底理解できない。
リズは混乱しながらも努めて冷静な声で言う。
「叔母様は私を引き取ってここまで育ててくれました。家族として今までずっと……」
「そんなの、周りからよく見られるために決まってるじゃない。信者たちに慈悲深くて身も心も清らかで美しい聖女だと印象づけるための大衆操作。本当は子供なんて引き取りたくなかったけど仕方がなく育ててあげたのよ」
ドロテアはリズを装飾品として扱っていたに過ぎなかった。リズという装飾品で自身を着飾ることで懐が深い人間を演じていたのだ。
真実を知らされたリズは目の前が真っ暗になった。姪として、ましてや家族としても扱われていなかったことに絶望する。
黙り込んでいるとドロテアがはあっと深いため息を吐いた。
「それなのに恩知らずのリズベットは私に酷いことをするの。――まさか、私から聖力を奪って次期聖女になろうとするなんて」
思考が停止しているリズはドロテアが何を言っているのか分からなかった。
「私が叔母様の聖力を奪った?」
「気づかないのも無理ないわよ。聖力を失う感覚なんて元聖女や現聖女である私自身にしか分からない。聖女に目覚めたばかりのあなたは無意識のうちに料理に自分の聖力を込めて他人を癒やしているわ」
その説明を聞いて、リズはアクアたちの言葉を思い出した。
アクアたちは頻繁にリズのご飯には人を癒やす力があると言っていた。あれは聖力を込めたご飯に治癒や浄化の作用があるということを意味していたのだ。
ドロテアは忌ま忌ましそうに爪を噛む。
「まったく、どれだけ私を苛つかせるのかしらね? 今まで殺した他の次期聖女よりも憎たらしいわ」
「次期聖女を殺した? 叔母様はこれまで現れた次期聖女をずっと殺してきたのですか?」
ドロテアが聖女に就任してからの十年。いつまで経っても次期聖女が現れないのは不思議だったが、単に現れないだけだと思っていた。だが、実際は次期聖女が現れる度、ドロテアが亡き者にしてきたのだ。
女神に見えていたドロテアが一変して悪魔に見えてしまったリズは戦慄いた。
「リズベットの言うとおり、私は次期聖女が現れる度、彼女たちを葬り去ってきたわ。大司教の保管室から本物の羅針盤とレプリカをすり替えて、羅針盤が光の方角を示す度に現地へ赴いた。……まあ、数年前からは私のために動いてくれる聖騎士を使って殺してきたんだけど」
「どうしてそんなことを……」
理解できないと首を横に振っているとドロテアが表情を歪めた。
「この玉座は私のためにあるのよ。誰にも渡さない。聖女を引退したら私に何が残るの? 聖女じゃなくなったら私は見向きもされなくなる。誰からも称賛されず、ひっそり惨めな生活をするなんて絶対嫌よ。皆に崇められるからこそ、私には価値があるの。そのためなら、私はなんだってするわ!」
ドロテアは両手を広げると聴衆の前で演説するように言い放つ。
彼女の恐ろしい話はまだ続く。
「羅針盤の瑠璃が光って方角を示した時、次期聖女は聖力がまだほとんど宿っていない状態なの。完全な聖女になってしまう前に私が息の根を止めてしまえば、私は聖女の地位に留まることができる。今回リズベットはもう覚醒してしまっているけど、日が浅いからまだ間に合うかもしれない。さあ、あなたも私のために命を捧げなさい。これまでの乙女たちのように」
ドロテアは樽の上から下りると、壁に掛けられている斧を手に取った。
それを床に引きずりながらゆっくりとリズへ近づいていく。
「ひっ……嫌っ」
「大丈夫よ、怖くないわ。すぐに大好きな両親の元へ送ってあげるから」
瞳に狂気の色を孕むドロテアはいつもの美しい微笑みを浮かべると、斧を両手で掴んで振り上げた。
「さようなら。私の可愛いリズベット」
ドロテアは勢いよく斧を振り下ろした。
リズは身体を奮い立たせると転がるようにして斧から身を躱した。それから立ち上がると、前のめりになりながらも扉に体当たりして外へ出る。
周りの景色を確認したが、森の中というだけでここがどこなのか分からない。
妖精に遭遇してもおかしくない場所なのに、周りには一人も妖精が飛んでいない。
(叔母様が言っていたとおり、この鎖は妖精を寄せ付けない。これを外さない限り、助けてもらえないということですね)
だが、鎖には鍵が掛かっていて解錠しない限りは外せない仕様になっている。
「逃げるなんていけない子ね」
小屋から出てきたドロテアは凄まじい形相でこちらを睨めつけている。
リズは脇目も振らずに走った。知らない小屋に連れ込まれたので自分がどこにいてどの方角へ向かって走っているのか分からない。後ろをちらりと振り返ると、斧を握り締めるドロテア。
その後ろには見慣れた風景――スピナの町並みが木々の間から垣間見えた。
(私を連れ込んだ小屋は要塞とソルマーニ教会の間にあったのですね)
折り悪く、リズは町がある反対方向へと走ってしまっていた。
これでは助けを求められない。したがって、取れる手段はただ一つ。
ドロテアから距離を取り、どこか隠れられそうな場所に隠れてやり過ごす。
リズは一心不乱に走り続けた。後ろから追いかけてくるドロテアとの距離は徐々に開いていく。
(良い調子です。あとは隠れられる場所を見つけさえすれば……)
肩で息をしながら必死に走っていると突然樹木が途切れて視界が拓けた。
「……え」
その先はついに行き止まりで、側を流れていた川の水が音を立てて流れ落ちていく。恐る恐る下を覗き込むと十数メートルの滝ができていて、その下は滝壺となっている。
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