第26話 過去 戦争がはじまる前夜
「少し軽率だったかな」
教官との朝帰りのあと、私は訓練に行く前に大きなため息をついた。
お嬢様の集団が、こうも色恋沙汰に敏感で、ものすごいスピードで噂は駆け巡り、そして、『何々に違いないですわ』と一度決めつけた話になったら訂正するのはとても難しいのだということは想像して……いなかったわけではないけれど、思っていた以上だった。
(まあ、本当に何もなかったわけじゃないけれど……)
沖合に固定してある船での教官との一晩を思い出すと、顔が赤くなる。
怖くて泣いてしまうというみっともないところを見せてしまったので、それからは恥なんて気にしなかった。
(でも、あれは抱かれたとか……そういったうちにははいらない……よね)
そう思いながらも震えながら遠慮せずに甘えてしまった光景が頭の中に一瞬蘇る。そんな私を優しく受け止めてくれて、背中に回した教官の手の感触も同時に再現できてしまい体が熱くなってしまう。
「おはようございます。お姉さま」
グラウンドにでた私を出迎えてくれたのはロヴィーサちゃんだった。
それは、ここ最近のいつも通りの日常ではあるのだけれど……。ロヴィーサちゃんが私を見る目が鋭かった。
「お、おはよう。ロヴィーサちゃん」
私は思いっきり動揺しながら答えた。他のお嬢様たちにどう思われようが大した話ではないと思っていた。ただ、この娘に軽蔑されることだけが怖い。
(でも、別に教官はと訓練で一晩過ごしただけ、最後の一線は越えてないよ……あれ、本当に超えてないのかな。あれ……?)
そんな言い訳をロヴィーサちゃんにするのも変だと思いながら、頭の中はぐるぐると回っていた。
「それでは、みんなも待ってますし、訓練にまいりましょうか」
ロヴィーサちゃんの方が、年上のリーダーであるかのようにそう促された。
戸惑っている私を見て柔らかい笑みを浮かべていた。ただ、ちょっと寂しそうな視線だとも感じてしまう。
今日はまずは体力訓練だった。
私にとってはちょっとハードな体育の授業くらいの認識だった。ロヴィーサちゃんをはじめ、後輩の女の子たちも最初はかなり苦しそうだったけれど、慣れてきたのか最近では少し楽しい時間になってきていた。
ジャージ姿の私の前を、軽装な体操着姿なロヴィーサちゃんが歩いていた。ショートパンツからスラリと伸びた足が眩しくて思わずちらちらと眺めながら後ろについていく。
ブルマ姿をやめてしまったんだなと残念がりつつ、私やマルティーヌたち年長組とはまた違う、少女にもなっている途中の体つきに目を奪われてしまっていた。
膝の裏からはじまり、太ももお尻、背中と視線を上げていったところで急にロヴィーサちゃんに振り向かれてしまって焦った。
「私、お姉さまを軽蔑します」
はっきりとそう言われてしまう。
今、ロヴィーサちゃんの綺麗な足をじっくり観察していたのがばれてそう言われたのかと思っていたけれど、それは違うようだった。
「その体で、教官を誘惑するなんてずるいです」
え、ああ、そっちかと思ったけれど、どちらにしても予想はしていたけれどショックなことには違いなかった。
「私、負けませんから」
ロヴィーサちゃんの再びの宣戦布告だった。
爽やかなアスリートみたいな笑顔で安心はしたけれど、『そうなるのか』とちょっと落胆した気持ちにもなっていた。
今晩の黒イルカは、静かに滑走路にランディングした。夜の駐車場に電気自動車を留めるくらいにあっさりとして静かなものだった。
(すぐに、帰ってくるだけでもすごいのに)
滑走路横の道から見ていた私は、思わず感心してしまった。
「うん、無事に着陸。上手なものだな」
キャノピーを上げて降りてきた教官の声がする。
つい、私は滑走路横の茂みの陰に隠れてしまった。
(いや、別にたまたまぶらついていても問題ないし、後輩が頑張っているか確認と応援にきたっていいじゃない)
そう思ったけれど、ロヴィーサの姿を見ると普通に出ていくことができなかった。ふと後ろにはロヴィーサの同級生だろうか、同じように隠れている生徒が何人もいるようだった。
「ありがとうございます。ご、合格でよろしいのですね!」
ロヴィーサは、ヘルメットを勢いよく脱ぐと前部座席から飛び降りるようにして出てきて教官に声を掛けてきた。よく見れば、ちょっと足は震えている。冷静そうに見えて、実際には怖かったのだと分かって私は少し安心した。
「ああ、いいよ。問題ない」
「で、では、このまま朝までコースでよろしいのでしょうか」
「え?」
(もしかして、この後のことを考えて震えていたのかな)
教官を絶対に逃さないという決意に満ちた眼差しでロヴィーサちゃんは前のめりになり、返事を待っていた。
(教官も理解しかねているな)
ロヴィーサちゃんのことは、教官にとっては真面目でいつも大人しくて話す時は伏し目がちな女の子というイメージしかないのだと私は知っている。ただ、今晩の教官は動かなかった。じっくりと至近距離ではじめてロヴィーサちゃんの顔をじっくり観察しているのだろうという気がした。
「あ、あの?」
「いや、綺麗な目だなと思って」
じっと見たままで止まってしまった教官を不審に思ったのだろうけれど、何も考えずに素直な言葉が口からでた瞬間に、ロヴィーサちゃんの白い肌は真っ赤に染まったのが夜の滑走路でも分かった。
(ちょっと面白いな)
天然な教官と、その言動に振り回されて困惑しているであろうロヴィーサちゃんの顔がはっきり見えなくても分かってしまう。
「ええと、今晩の訓練は終わりだから帰っていいんだよ」
「か、帰りません!」
間髪入れずに、ロヴィーサちゃんは言い切った。ちょっと涙目で真剣な声になぜか私が悪いことをしている気分になってきてしまう。
「そ、それは、確かにマルティーヌさんとかと比べれば私は子どもかもしれませんが……。で、でも私も真剣なんです」
「え? マルティーヌが何?」
何の話をしているのか分からなかったけれど、そういえば、この間、私が怪我で休んでいる間に一瞬だけマルティーヌが成績トップになったという話を聞いた気がする。教官に抱いてもらうための執念がなせるわざと話題になっていたらしい。
つまり、その一瞬の成績で教官と夜のデートをする権利を得たのだろう。
「あ、あの。この間、マルティーヌさんは教官と夜のデートを楽しんだと言っていました」
真剣な眼差しというレベルを超えて、もう色々覚悟した目で教官をじっと見つめていた。
「ですので、私もよろしくお願いします!」
「……夜のデートって、マルティーヌがしたのも今日と同じだよ。気合いがあるから、ちょっと夜間の飛行訓練をしただけ」
(夜間の出撃なんて無いほうがいいけど……)
実際の訓練の内容なんて彼女たちにはどうでもいいことだということに、まだ教官は気がついてはいないみたいだった。
「訓練に合格したから、朝まで教官の部屋で過ごしたとマルティーヌさんは言っていました」
「え?」
(ああ、なるほど)
強い言葉を聞いて、やっと少女たちの間でどんな駆け引きがあったのかを理解した。
「マルティーヌは、着陸してからも怖くて泣き続けて、戻したりしていたから介抱してあげただけだよ」
「え?」
肉食獣みたいな眼光をしていたロヴィーサちゃんが、やっと普通の女の子の目に戻ってくれた。
「で、でも、朝まで教官のお部屋で過ごしたんですよね」
「僕のベッドで吐いちゃって、大変だったよ。あいつは、僕がシーツを洗っている間にぐっすりお休みしていたよ」
「え、それだけで済むわけが……」
しばらくの停止の後で、何かマルティーヌの言動に思い当たることがあったのだろう。
「……ありそうですね。マルティーヌさんなら」
普通の目どころか、ちょっと伏し目がちで自信なさそうないつものロヴィーサの視線に戻っていた。
「あ、あのすいません。マルティーヌさんのは嘘だったみたいで……。でも、お姉さまの時は……」
恥ずかしそうに、ロヴィーサは赤くなってうつむいていた。
教官はそんな彼女の頬に手を伸ばしてそっと触れた。
(えっ)
教官は深い意味はなかったのだと思う。つい、ロヴィーサちゃんが、いや私たちが本当に存在しているのを確かめたくなったのだという気がした。
「え? あ、あの?」
ロヴィーサちゃんは再び顔を上げて教官と目を合わせていたけれど、手から離れていいのかこのままでいいのか分からなくなって身動きができなくなってしまっているようだった。
「どうする? 本当に朝までコースで僕の部屋に来る?」
「……い、いえ。嘘でしたのなら……。こ、今夜はありがとうございました」
ロヴィーサちゃんは直立不動で敬礼していた。本当に頭から湯気が出ている気がするくらいに顔が真っ赤で泣きそうな目をしていた。
ついさっきまでは、覚悟を決めて強引に行くと決めていたのに、一度、気が緩んだらもう恥ずかしさに勝てないようだった。
「そ、それでは失礼いたします」
慌ててロヴィーサちゃんは走り出してしまった。
「おやすみ」
教官は少し寂しそうに手を振って見送ったあと、急に首がこっちの方を向いた。まっすぐ正確に私の方を見ていた。
「盗み聞きはよくないなあ」
「ひい」
何故か教官は、私に対してだけは気さくにからかうような態度をとってくる。
「別に、盗み聞きじゃないです。いちゃいちゃしているので、出ていくタイミングを失っただけで……」
茂みから立ち上がった私が変な言い訳をしていることは自分でも分かっている。そもそも、何で夜に寄宿舎を抜け出してここで何をしているのかと聞かれたら何も言えなかった。
「ふふ。そう見えた?」
教官は、よく分からない微妙な笑いをしていた。
「ちょっと興味がでてしまったんだよね」
ロヴィーサちゃんが去った方を見ながら、そう言った。この教官にしては珍しいことなのだと私は知っているので胸が痛んだ。
「じゃ、じゃあ、朝まで可愛がってあげればよかったんじゃないですか」
皮肉めいた返事をしてしまった。
「あの娘たちをどうしたいのか、自分でもよく分からないんだよね」
教官は、アンニュイなため息をついていた。
「凄腕のパイロットに育てたいのか、それともずっと地上にいてもらって愛でたいのか」
教官の気持ちはよく分からなかったけれど、きっとどっちでもないのだろうという気がした。
「ふう、普通の人間みたいに悩んで疲れちゃった」
ついさっきまでの格好良く憂いを帯びた表情は終わり、気の抜けた表情で私の方に揺れながら歩いてきた。
「仕方ないから、慰めて欲しいな」
私の肩に手を回してそんなことを言ってきた。
「何で私だけ。私のこと同年代の大人だと思ってませんか? 私だって繊細な少女なんですからね」
ロヴィーサちゃんたちと同じように見て欲しいというのは本当なのだけれど、『繊細な少女』は言いすぎたとは分かっている。
「ははは」
楽しそうに教官は笑っていた。楽しくなっていただけたのなら何よりですと私も笑っていた。
夜の滑走路に肩を組みながら、笑っている二人だった。
島の学校で楽しくみんなで過ごすのは、この夜が最後になった。
激化した戦争のため、私たちは、次の日から前線に派遣されることになったのだった。
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