第31話 待ち望んだ物
薫はすぐに部屋の契約を済まし、仕事の合間を見ながら少しずつ荷物を運び入れていた。
健悟とは色々話し合った結果、夏休みを利用して引っ越しをする事になり、先に薫だけがその部屋に住む事になった。
寝室の衣類だけは運び、ベットはそのままにして仮眠室に変える。元々セミダブルのベットは健悟と2人で寝るには狭かったので、この際、大きいベットに買い替えるつもりだ。
この事は健悟には内緒にしていた。たださえ、自分の引っ越し費用もあるのに、薫が新居の引っ越し費用を全て出していた事を気にしていたので、家具は特に買い足しはせずに引越しするから心配いらないと伝えていた。
実際、部屋は大きめのインクローゼットになっているので、2人分の服の収納には困らないし、作業場を広くする為にもソファーやテーブル等も新居に運ぶつもりだ。
そうする事で、作業場はずいぶん広くなる。今まではアシスタントにテーブルでの作業をしてもらっていたのが申し訳なかったので、これを機にちゃんとした作業用のテーブルを買う予定だ。
キッチンの方は多少買い足すものがあるが、全て元々予定していた出費なので、あまり気にならなかった。
収入は多くはないけれど、今まで引きこもりしていた薫にはそこその貯蓄は蓄えている。それに、仕事が増え、本が以前より売れ始めていたので、余程の事がない限り収入は増えていくはず。
それを見越して、ベットはクイーンサイズを奮発して購入した。下心も手伝って、恥ずかしさもあり、引っ越しが完成するまでは健悟には見せないつもりでいた。
ちょっと、はしたないかな・・・でも、これなら、ゆったりと2人で寝れるし・・・薫は届いたばかりのベットを緩みっぱなしの口を押さえながら、あれこれ想像しては顔を赤らめていた。
引っ越しは二週間ちょっとで終わっていたが、締切モードに突入し、新居ではなく作業部屋に泊まる事が多くなっていた。
健悟には引っ越しが終わるまで来ないようにと伝えていたが、そのまま忙しくなったので数週間会えない状態が続いていた。
それでも、自分も忙しいはずなのに毎日連絡をくれる健悟の気持ちが嬉しかった。それが励みとなり、予定通り原稿を上げる事ができた。
「はい。確かに原稿受け取りました」
原稿を封筒にしまいながら、佐藤がいつもの口調で話す。
「それにしても、ここは随分見違える部屋になりましたね」
「はい。そのせいもあってか、作業が随分楽なんです」
佐藤の話に満面の笑みを浮かべて薫が答える。佐藤は薫の笑顔を見て、優しく微笑む。
「先生の表情も随分と変わりました。愛の力ですかね?」
「なっ・・・」
揶揄うように話す佐藤の言葉に顔を赤らめる。
「おや、気づいてないと思ってました?アシスタントの人達も知ってますよ?」
佐藤の言葉に声を詰まらせ、さらに顔を赤らめる。
「先生が幸せならいいんです。過去は変えれないけど、未来は自分次第でいくらでも変えれるんです。もっと欲張ってこれから頑張って下さい」
薫は小さくはいと答え、照れ笑いにも似た表情を浮かべる。すると、佐藤がそう言えばと、話を変える。
「郵便受け、最近見てないですよね?チラシが突き出てたので、おそらく中身も満杯だと思いますよ」
薫はあっと小さく声をあげ、佐藤を見送りながら取りに行くと伝えた。一緒に玄関を出て、1階の集合ポストの前まで行くと、薫は佐藤に頭を下げ別れる。
そして、ポストを開け中の物を取り出し始める。佐藤が言っていたようにポストはチラシや封筒で溢れかえっていた。
ため息を吐きながらなんとか全てを手に収め、封筒を一つずつチェックしながら部屋へと戻る。
その中から、白い縦長の封筒を見つけ裏返すと、そこに書かれた名前を見て薫の足が止まる。
そこには、待ち望んでいた母の名前ではなく、あの日、薫に話をしてくれた叔母の名前が書かれていた。
その事がなぜか薫の心音を速くさせ、眩暈がするほどの不安を煽る。
震え出す体を止められず、ふらふらと壁伝いに歩き、部屋へと歩き始めた。
何とか部屋に辿り付いた薫は、手に持っていた他の封筒やチラシを落とし、白い封筒の手紙だけを握りしめ、仮眠室になった部屋へと向かった。
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