第30話 慌ただしい日々

新学期を迎えるとすぐに健悟は忙しくなった。教員の資格を取るために本格的に学業が忙しくなったからだ。その頃には薫のバイトを辞めさせ、代わりに新しくアシスタントを雇っていた。

薫も連載が徐々に評価を得ていて、まだ、連載の終結を終えていないのに、次の作品の話が出ていて、佐藤もマメに自宅に来ては打ち合わせをしていた。

賑やかになった自宅を眺めながら、ふと薫は引っ越しを考え始める。

これからまた新しい作品に取り組むには、人手も必要になってくる。そうなるとこの部屋では手狭くなる。

何より人がしきりなしに出入りする家では、ゆっくりと健悟と過ごすスペースも無くなっていた事が気がかりであった。

たださえ、互いに時間が取れなくなっていて、やっと会えても人がいる状態ではくっついたりできないのだ。

外で会うのもいいが、それではこの状態と変わりない。いくら視線を気にしなくなったと言っても、やはり沢山人が行き交う外ではまだ、臆病になる。

何より今から教職を目指す健悟にとっては、あまり人目に晒されるのは良くないと薫は感じていた。もちろん健悟はそんな事は気にしないと言うだろうが、それでも薫には不安でたまらなかった。

オープンが悪いとは思っていないが、カミングアウトする事が全てではないし、完全に隠すと言う事ではないが、多少は気にした方がいいと思っているからだ。

怖くないと思っていても、それは薫自身の事だからで、自分が経験した事を健悟が味わう必要はないと思っている。

健悟は大丈夫と言うが、人の心がどんなに脆いか知っている。

大丈夫だと思っていても、些細な事がきっかけで簡単に壊れてしまう。

健悟にはそうなって欲しくない・・・・。


「・・・さん・・・薫さん」

健悟の呼びかけに我に帰る。ぼーっとしてる間に、いつの間にか部屋には健悟と2人きりになっていた。

「薫さん、何かありました?」

心配そうに薫を見つめる健悟に、薫は笑みを浮かべて大丈夫と答える。

「あのさ・・・」

「はい」

「俺、引越しを考えてるんだ」

「引越し・・・ですか?」

突然の話に健悟は顔を曇らせる。薫は慌てて健悟に体を向ける。

「何かあったとかじゃ無いんだ」

「じゃあ、どうして急に・・・」

「ほら、ありがたい事に仕事も順調に行ってて、ここに人の出入りも増えたでしょ?新しく仕事を増やすとなるとここも手狭くなると思うんだ」

「なるほど・・・」

「それでね、別の所に大きな所を借りようかと思ったけど、今、母さんの返事を待ってる状態でしょ?今、変わると、もし母さんから連絡があった時にまた行き違いが出るんじゃ無いかと思って・・・。手紙も届いているかわからないし・・・」

そう呟くと、薫は少し俯く。あれから、一ヶ月に一回は手紙を書いているが、未だに何の連絡もない。不安ではあるが、届いていると信じて書き続けていた。

健悟は優しく薫の頭を撫でる。薫はゆっくりと顔を上げて、また口を開く。

「それでね、いい方法ないかなぁと考えてたら、佐藤さんが、このマンションの空き部屋をもう一つ借りたらどうかと言われてね」

「そこに移るんですか?」

健悟の言葉に小さく頷き、話を続ける。

「ここをそのまま仕事部屋にして、住居を空き部屋に移そうと思うんだ。それなら行きちがう事はないでしょ?それにね・・・」

言葉を詰まらせ、薫は顔を赤らめる。健悟は薫の顔を覗き込み、話の続きを待つ。

「今、お互いに忙しいでしょ?やっと時間ができても、いつも誰かがいて2人きりになれない」

「・・・・確かに・・・」

「大きな所で部屋を分ける事も考えたけど、俺、2人の時間を大事にしたいんだ。外で会うのもいいけど、やっぱり人が多いと落ち着かないし・・・俺、もっと健悟くんと誰の目も気にせず、寄り添っていたい」

「・・・薫さん」

真っ赤な顔で打ち明ける薫が愛おしくて、健悟は薫の頬を両手で包み、額にキスをする。

「あとね・・・健悟くんにお願いがあるんだ」

「何ですか?」

「あの・・・その・・・俺と一緒に住まない?」

勇気を振り絞って、健悟の顔を見つめて言い放つと、健悟は目を丸くして薫を見つめる。

「い、嫌かな?」

「凄い嬉しいです」

健悟は満面の笑みで薫を抱きしめる。

「俺も一緒に住みたいと思ってました。でも、薫さんの仕事の邪魔はしたくないし、俺はまだ学生だから何かと薫さんに負担をかけると思って・・・でも、就職が決まって、ちゃんと卒業できたら薫さんに言うつもりでした。一緒に住もうって」

その言葉に薫は安堵の笑みを溢す。

「良かった。断られたらどうしようかと思ってた」

「断るわけないです。俺も望んでた事だから」

「うん・・・実はね、もう調べてて、この上がちょうど空いてるんだ。だから、話進めていいかな?」

「もちろんです。俺も時間作って手伝います」

「ありがとう。でも、健悟くんは大学に専念してね。時間がある時は引越しの準備でもして、ここには無理に来なくていいからね。これからずっと一緒にいれるんだから、無理はしないで」

「わかりました。あぁ・・楽しみすぎる」

健悟はそう呟くと、薫を強く抱きしめ、薫の肩に顔を埋める。薫も健悟の背中に手を回し、俺も楽しみだと答えた。

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