第39話 回復(リハビリ)36 そして道は続く

 次の日、薬子やくこはぼんやりする頭を振って、荷造りをしていた。一泊だと、眠ったらすぐに帰宅だから、そうのんびりはできない。


「あんた、もうちょっといたらどう?」


 また車で大きな駅まで送ってもらった。この期に及んで引き止める法子ほうこに向かって、薬子は笑った。


「明日は食料を買って、明後日は職探しを再開したいの。なんか、元気出てきちゃった」


 そう言ってスマホに目をやる娘を見て、法子は笑った。


「そうね、ここにいたって事態が進展するわけじゃないし。ご飯だけはちゃんと食べて、しっかりやりなさいよ。必要ならクリニックにかかるのも忘れないように」

「わかった。また電話する」


 駅の前で足を止め、手を振って別れる。しかし薬子は、今度は本当の笑みを浮かべていた。


 バカみたいな悪夢から覚めた後の電車は、車窓からの景色を眺めているだけでも楽しかった。にやにや笑う薬子を誰かが不審に思ったかもしれないが、それでも構うものか。


 最寄り駅に降り立った薬子は、真っ先に商店街をにらむ。そして、小さな焼き肉屋に向かった。


「いらっしゃいませえ」


 カウンターの中に、女性店員がいた。薬子は彼女の目の前に腰を下ろす。ちらっとメニューを見てから、おもむろに口を開いた。


「タン塩とハラミの盛り合わせください。あと、ライスの中と、レモンチューハイ」

「かしこまりました-!」


 注文の後、すぐに運ばれてきたジョッキに、薬子は目を細める。


「いただきます」


 よく冷えたグラスに唇をつける。一気に喉に流れこんできた冷えた液体が、薬子の胃に流れ落ちていった。


「お姉さん、いい飲みっぷりですね!」


 天を仰いでレモンチューハイを飲み干す薬子に、焼き肉屋の店員が声をかけてきた。


「コンロに火、つけますね。お肉も今持ってきます」


 薬子はうなずいた。コンロの上に手をかざして待っていると、次第に掌が熱くなってくる。


「そろそろいいですよ。お肉、ここに置いておきますね。ライスもすぐ持ってきますから」

「ありがとうございます」


 薬子はタンとハラミを二枚ずつ取って、鉄板に並べる。じゅっと音がして、煙が上がった。その煙まで美味しそうに感じて、薬子は深く息を吸う。


「そろそろかな……」


 脂が落ちて、はぜる音をたてた。肉の焼け具合を見比べ、よく火が通ったものから皿にあげる。


「おっと……」


 まだ熱いそれを、急いでタレにくぐらせてご飯の上に載せる。それを頬張り、咀嚼して胃に落とすと、眠っていた内臓が一気に動き出した。


「美味しい!!」


 感激の声が漏れる。法子の食事は健康に気を遣って、かなりの薄味だった。だから余計に、タレの濃い味が美味しく感じる。


 火が大きくなっているので、肉を載せると次から次に焼けていく。薬子はあっという間に肉の皿を平らげた。残った空の皿を見て、息を吐く。お腹にはもう少し余裕があった。


「空いたお皿、下げましょうか? 追加注文します?」


 薬子はぱたぱたと軽い足取りで近付いてきた店員にジョッキを渡し、チューハイのおかわりを頼んだ。


「あと、カルビのタレと、塩ホルモンの追加もお願いします」

「かしこまりました。食べっぷりもいいお客さんでありがたいですねえ」


 褒められて頭をかいている薬子の前に、さっそく肉の皿が置かれた。まずホルモンから焼いていくと、だんだん熱でくるっと丸まってくる。


「もういいかな」


 軽く七味を振って含めば、どっと脂の旨みが口の中に満ちて、さっきとは違う幸福感がある。今度はカルビ、ここもサシがよく入っていて、勝手にとろけていく。


 白米が順調に減る。米と脂がそろえば、無限に箸が進むような気がした。


 しかし幸せな時間にも、いずれ終わりがくる。薬子の胃袋が、もう八割方埋まってきていた。


「……すみません。最後に、バニラアイスも」

「かしこまりましたあ」


 とうとう、焼き肉と無関係なものまで注文してしまった。しかし、薬子は今、混じりっけなしに幸せだった。




 それから数日後。目を覚ました薬子は、大きく伸びをする。ゴミ出しついでに軽く家の周りを散歩し、新しくできたコンビニの商品をチェックする。ランナーが固まって後ろから走ってきたので、横に避けて道を譲った。


 軽く汗をかいたので、踵を返し家まで戻る。冷凍庫から食材を冷蔵に移し、自然解凍の準備をした。


「今日の昼は余り物チャーハンとサラダか。夜は……お粥しかないけど、まあいいや」


 食卓は寂しいが、節約できるならそれに越したことはない。


 今日は面接もなく、大して行きたいイベントもない。典型的な「凪」の日だ。薬子は軽くストレッチをしてから、部屋の掃除にとりかかった。


 昼頃になると干した布団を叩き、取り入れる。意欲がなくならないうちにシーツを張り替えて、寝床を整えた。


「午前中だけで色々できたなあ」


 薬子は独り言を言いながら、パソコンを立ち上げる。いつものブログの更新をしてから、メールボックスを開く。紹介会社から、新たなメールが来ていた。


 それはお祈りの連絡だった。過剰な期待はしていなかったので、薬子はそう落ち込みはしなかった。面接で言いたいことを正直に言いすぎたかもしれないが、それで落ちるなら縁がなかったのだ。


「さようならー」


 そう言って薬子は、受けた企業の名前をリストから削除した。これで、今は四つの企業がリストに残っている。画面を見て、薬子は笑った。


 最近はこの繰り返しにも少し慣れた。薬子から断るケースももちろんあるが、向こうから断られる方がまだ多い。しかしそれでも、気まずいとは思わなかった。


 自分が納得した結果になるまで続ける。妥協はもうしない。そう決めたのだ。


「さて、昼にするか」


 薬子は冷蔵庫から、白菜を取りだした。手を添えて、細く切ってサラダに入れる。これはこの前帰った時、法子に教えてもらったのだ。


 口の中に入れると、しゃりしゃりした噛み応えがあって美味しい。ゆっくり噛むことは体にも良いと、法子から聞いた。


「これでやっと半分か」


 生まれたての赤子の体重くらいあるのではと思う、呆れるくらい大きな白菜を買ってしまったので、野菜室がほぼ埋まっている。明日は鍋だな、と薬子はつぶやいた。


 相変わらず、つましい生活は続いている。まっすぐな道が目の前にあるわけじゃない。先がどうなるかは未だにわからない。運が悪いから、シンデレラにも成り上がりにもきっとなれない。


 それでも、この胸の中には希望がある。今はそれだけで十分だ。

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病み女子薬子の回復(リハビリ)生活 刀綱一實 @sitina77

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