第26話 回復(リハビリ)25 絵画個展

 狭い通りの雑貨店を、薬子やくこは時折訪れるようになっていた。最近は店主も薬子の顔を覚えてくれていて、気づくと真っ先に手をあげてくれる。


 ある日、雑貨店のカウンターにチラシが置いてあるのを見つける。かわいらしいイラストが描いてあったので、薬子は手に取った。


「なんですか、これ?」

「知り合いの作家さんが原画展を開くから、その宣伝。良かったら行ってみてください」


 少し困惑したが、せっかくもらったので薬子は行ってみることにした。……個展なんて行くのは初めてなので、ちょっと勝手が分からなくて困るけど。


「ちょうど、今度の土曜日には作家さんもカフェに来るんですって。色々話が聞けるかもしれませんよ?」

「迷惑じゃありませんか」

「大丈夫、人が多い方が喜ばれるって。ちょっと待つかもしれないけど」


 薬子は手帳を見る。はっきりと返事はしなかったが、その日にしてみようかと思った。自由な生き方をしている人に対する憧れが、胸の中で育ってきている。


 日々を過ごすうちに、展覧会当日になった。言われた目印をたどって、薬子は展示会場までやってきた。さほど難しい道のりではなく、店自体はすぐに見つかる。


「……なんか、心の準備がいるなあ」


 指示されたカフェは路面店ではなく、細い階段を上った先にあった。この前の雑貨店もそうだったのだが、この辺りはこういう作りの店が多い。別に人が並んでいたり、イベント特有のざわつきがある感じはしなかった。


 普通に入るだけならまだいいが、展覧会だ。入るなり変なお姉さんがくっついてきて、絵を買わなかったら恫喝されたりしないだろうか。


 友達連れなら良かったのだろうが、あいにく薬子は一人だ。


 薬子は階段をにらんだ。……ええい、ままよ。足を無理矢理に踏み出して、二階へ向かう。


 店内には大きな四人掛けの席が二つ、小さな二人掛けの席が四つある。すでに親子連れとカップルが食事をしていて、一人連れは薬子だけだった。


 一瞬、店を間違えたかと思った。しかしカウンターや天井にチラシと同じ絵がかかっていることに気づく。


「いらっしゃいませ。何名様ですか?」


 ごく普通に、店員が声をかけてくる。今のところ、絵がある以外は本当に普通のカフェの応対だ。


「あ、一人です……」


 拍子抜けした気分で、薬子は窓際の席についた。店員がメニューと水を持ってくる。


「じゃあ、明太子のパスタを」


 注文を終えた薬子は荷物を席に置いて、絵の方へ近づく。ルールや順番などはなく、見たければ勝手にどうぞという感じで置かれていた。


 天井からも絵がぶら下がっているので、薬子はそれを見上げる。重なり合った絵にはくるみ割り人形が居て、とぼけた表情でこちらを見ていた。それをずっと見ていると、何か話しかけてきそうな気さえする。


 皿が机に置かれる固い音がして、薬子は振り返った。店員と目が合う。


「置いておきますね。冷めないうちにどうぞ」


 薬子は礼をして、席に戻る。パスタはこれといって変わった味はしなかったが、無難に美味しかった。


 暖かいパスタを食べ終わってから、薬子は再度絵に近付いた。見返すと、また違った絵のように感じるから不思議だ。


「熱心に見て下さってますね」

「初めてなんです、こういう原画を見るの」


 不思議な街や動く人形などが、色鉛筆調のやわらかいタッチで描かれている。ゆったり描かれたものもあれば、驚くほど明暗がはっきりしたものもあった。


「販売もしていたんですけどね。小さな原画は、けっこう売れてしまったんですよ。後は大きいサイズしかなくて……」


 確かに葉書サイズの原画は、あと二点ほどしかなかった。薬子が欲しかった絵柄は大きいものしかなく、とても予算が許さなかったのでやめておく。著作を紹介したパンフレットだけ、もらっておいた。


「……ところで、今日は作家さんが来られるって聞いたんですけど、まだですか? それとも食事している誰かなのかな」


 薬子は店を見渡した。


「いえ、実は……作家さん、今日はかなり具合が悪いみたいで。お客さんにうつしてもいけないし、お休みされると連絡があったところなんです」

「それはタイミングが悪かったですね……」

「また個展をやる予定がありますから、その時にいらしてください」


 笑みを浮かべる店員に代金を払って、薬子は店を出た。しばしたたずんだ後、踵を返す。


 後日、雑貨屋に薬子が行くと、他の客はいなかった。カフェでの顛末を薬子が話すと、雑貨屋の店主は大笑いした。


「なに誤解してるんですか。そんなとこ勧めるわけないでしょう」

「面目ない……」


 照れる薬子に向かって、店主は口元をつり上げた。


「でも、作家さんが在席してなかったのは残念でしたね」

「先に教えてほしかった気はしますね……まあ、具合が悪かったみたいなので、仕方ないんですけど」


 事情を話すと、店主はうなずいた。


「まあ、気を取り直して新しい商品でも見ていってくださいよ。かわいいのが入りましたから」


 店主が薬子に手招きをする。新しく入ったシールを袋詰めして、値段をつけているところだった。気を取り直して、薬子はそれを覗く。


「確かに可愛い。大きさもちょうどいいですね」

「うちのアカウントに載せたら、すぐなくなっちゃうと思いますよ」


 店主は定期的に、SNSで新商品入荷の知らせを流している。それをチェックしている常連は多く、めぼしいものはすぐに売約済みになってしまうのだ。SNSにのせる前に見られるのは、まめに店に来ている者だけである。


 薬子は、迷った末に兎モチーフのシールを一つ選んだ。


「あと、そっちの奥の方にハンカチを少し出しました。手を洗う機会も増えましたし、一つどうです?」


 店主の指さした方に、ハンカチの束がある。広げられ、見やすいように洗濯ばさみでとめて吊してあった。薬子は身を乗り出して、ハンカチを物色する。


「あ、こんにちは!」


 ふいに店主が明るい声をあげた。見ると、カウンターに男性が近付いていく。


「薬子さん、この人ですよ。チラシの絵本作家さん!」


 店主が不意に声をあげる。薬子は驚いて、一歩後ろに後ずさった。あわてて上着を引っ張り、身なりを整える。


「こ、こんにちは」


 作家はすらっと背の高い、男性だった。シンプルな黒シャツを着こなしている。顔立ちがどことなく少年っぽい感じがするのは、事前に絵本作家と聞いているからだろうか。


「この方も、先週の土曜日に個展に行って下さったんですよ」

「そうでしたか。カフェに行けなくて、申し訳ありませんでした。あの日はどうにもお腹の具合が良くなくて」

「いえ、私は気にしてませんから」


 薬子は手を振ってみせた。作家がにこにこしているので、重ねて聞いてみる。


「専業でなさってるんですか?」

「それじゃとても食えませんよ。バイトとかけ持ちです。でも、生きていければなんでもいいんで」


 作家はあっけらかんと言った。明るい性格のようである。


「とりあえずそのバイトも終わりそうだし、次はどうするかなと思ってるんですよね。ポストカードの新柄も考えたいし」


 そこで作家は何かを思い出した様子で、目を開いた。


「そうだ、お姉さん。個展に来て下さった方に、サイン入りのポストカードを配ろうと思ってたんです。取ってきたいんですけど、お時間大丈夫ですか?」

「は、はい」

「じゃ、ちょっと抜けてきます。すぐ戻ってきますから」


 作家は嫌な顔をせず、一旦店から消えた。その間にも出入りする客はなく、薬子は店主としゃべって時間をつぶす。


 十分ほどして、作家が大きなファイルを抱えて戻ってきた。それを開くと、ポストカードが小さなポケットに分かれて入っている。


「お好きなものを一枚どうぞ。サインして、お渡しします」

「え、どうしようかな……」


 迷った末に、薬子は海中で鯨が泳いでいるデザインのものにした。作家はさらさらとサインを描き込みながら、聞く。


「遠くから来て下さったんですか?」

「いえ、わりと家は近いんです」


 サインを描き込んでいる作家に聞かれ、薬子は素直に答えた。


「じゃ、またこの近くで個展を開くときは来て下さい。ここにもチラシを置かせてもらいますから」

「いいんですか! ありがとうございます」

「じゃ、これ渡しておきますね。今後もよろしく。よかったらSNSも見て下さい」


 作家は自分のSNS名を教えてくれたので、薬子はその場でフォローした。たくさんの作品が一覧で並んでいる。ゆっくり見ていくのも楽しそうだった。


「じゃ、僕はこれで」


 頭を軽く下げて帰っていく作家を、薬子は笑顔で見送った。


 何かをやることを、難しく考えすぎていたのかもしれない。なにも最初から、大きな成功を得なくていいのだ。少しずつでも働きながら、やりたいことをやっていればいい。そういう生き方でも彼は、十分幸せそうだった。


 心の負担が、また少し軽くなった気がした。

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