第20話 回復(リハビリ)19 新年
「明けました。おめでとうございます」
誰もいない家の中に、
薬子はあくびをした。去年の振り返りは一瞬で終わり、もう頭は今日のことを考え始めている。
薬子は冷蔵庫を開けた。小さな食卓の上に、おせちが並ぶ。昨日、宅配便で届いたものだ。実は、薬子が買ったものではない。
『どうせ帰らないなら、
壽子とは、
嘘をついているくせに、甘える先がどんどん増えていくことに心苦しさを感じつつも、薬子は顔を上げて冷蔵庫へ向かった。
「今はこんな便利なものがあるのね」
わざわざ自分で調べなかったが、今は一人用のおせちもかなり色々な種類がある。スタンダードなものから、あえて洋風や中華にしたものも多い。中には酒のつまみ限定、と銘打っているものもあった。
「どんなおせちにするかまでは聞いてなかったけど」
何度も開けてみようかと思ったが、いやいや元旦までと我慢してきた。薬子はわくわくしながら蓋を持ち上げる。
黒い箱に金色の飾り紐がかかっていて、威圧感がある。やたら仰々しいそれを開くと、中にびっしりとおかずが入っていた。
定番の黒豆、数の子、伊達巻、田作りにかまぼこ。薬子は小学校の頃から田作りが好きで、渋いとよくからかわれていたのを思い出す。
このおせちには軽く今風の要素も入っていて、サーモンのマリネやオリーブの漬けが添えられている。呑助なら、ワインが欲しくなるラインナップだ。
ただ薬子はほとんど飲めないため、それはご飯のおかずとしてかきこまれることになる。作った人間からすれば解せぬだろうが、こればかりは仕方ない。
味付けの濃いものが多いから、少し食べるとお腹がいっぱいになった。薬子はおせちを冷蔵庫に戻し、その後は寝正月そのものの生活を送った。
ブログの更新も完全にやめていたし、出かけようという気にもならない。だらだらしても良いという大義名分があれば、自分はいくらでもぐうたらな生活ができる性分なのだと実感した。
それでも何日か経つと世間は動き出し、暇を持て余しているのは無職の者だけになっていった。なんだか共通点を断ち切られたようで薬子は悲しかったが、そろそろ家から出る決意を固める。
寝ていれば使うお金は最小限で済むが、なにも考えないまま過ごすと若年性の認知症になりそうだ。実家がお大臣でもあるまいし、そんな負担はかけられない。
「どこに行こうかなあ……」
七日くらいまでは、どこの店も年始のセールに忙しい。呼び込みの音楽がひっきりなしに聞こえ、まだまだ未熟な薬子の財布の紐も緩んでしまうかもしれない。
「初詣もいっとくか」
薬子は軽くそう決めた。
今度は、いつも出入りしている神社とは別のところ。駅から歩いて十分くらいでたどり着く神社で、縁結びの神社として全国的に有名だ。有名人がここで結婚式をあげたこともあり、恋人を探している若い女性に人気があった。
ただ、恋愛だけでなく、その他の縁を結んだり、逆にいらない縁を切れるとも言われている。そのため、昔から地元の人に親しまれていた。
三が日の参拝ははなから諦めた。人が集まってくるのは目に見えている。四日になってようやく、薬子はそこを訪れようと思った。
念のために日にちをずらし、午前中に着くようにしたのだが、それでも結構な人だ。軽く見積もっても数百人はいるだろう。知り合いと会えなくて、携帯片手にうろうろしている人もいる。
薬子はバッグを抱くように胸の前で抱える。大事なものは奥に隠してあるが、それでも用心したほうが良さそうだ。
家の近くの神様には、挨拶代わりに顔を見せておくものだと聞いたことがある。皆、けっこうそれを信じているのかもしれない。
実家の近くの神社で、なでると頭が良くなる牛の像、というものがあって、いつも頭だけぴかぴかに光っていたものだ。コロナ下でそのしきたりはなくなってしまっただろうか。
こみあげる懐かしさをこみあげながら、薬子は鳥居をくぐった。もうこうなってしまうと、待つ他にすることがない。
神社の中は広場のようになっていて、ただ目の前の本殿に向かって直進していく。本当はここから小さな道が何本も伸びていて、各々参拝できるのだが、今日は入った人はとりあえず強制的に本殿に向かうよう設定されていた。
薬子は二十分ほど待ってようやく順番が回ってきた。大きな神社だから、年末よりさらに中央まで入るのに時間がかかる。
柏手を打ち、深く頭を下げる。再就職のことを念入りにお願いして、薬子はその場を離れた。
「さて、おみくじ引いて帰るか」
授与所では、十代から二十代とおぼしき若い女性たちが鮮やかな巫女服をまとって並んでいる。顔を上げてにっこり微笑まれると、それだけでいいことがありそうだ。
こちらのおみくじは自分で筒を振り、出てきた番号を巫女さんに告げる形式だ。番号を聞いた巫女さんは、奥の棚からおみくじを持ってくる。明確な案内があるわけではないが、前の人の行動を目で追っていればすぐに分かった。
薬子はカバンから財布を取り上げる。
「すみません、おみくじください」
「三百円でございます」
礼儀正しく言われたが、薬子は戸惑った。百円だとばかり想像して硬貨を握りしめていたのだが、思った以上に高い。支払いのところまでちゃんと見ていなかった。
「あれ?」
「どうされました?」
巫女さんが少し首をかしげ、困った顔をしてこちらを見ている。薬子は赤面した。
自分で勝手に百円だと早とちりしていただけだ。全く、年が変わってもそそっかしいのは変わらない。薬子はあわてて財布から札を出、おみくじをもらって列を離れた。
それにしても、なぜおみくじはだいたい百円なのだろう。ここみたいに例外もあるから、絶対そうしろと決まっているわけではないのだろうが。
そんなことを考えながらおみくじを開くと、吉だった。基本まだ闇の道の中にいるが、徐々に運が開けてくるから悪い感情を持つなと書いてある。
薬子は安堵の笑みをもらした。年末は凶だったから、転がるように落ちる時期はもう終わったのかもしれない。それとも、去年のあれがよっぽどで、神様もすまないと思ったのか。真相は分からないが、薬子はおみくじを財布にしまった。
「もう一回引いてくる!」
よっぽど満足いかない結果だったのか、鼻息荒くむきになっている人もたまにいた。すぐに引き返すその姿を見て、友人たちが苦笑している。
薬子も一緒に笑いながら、今度は絵馬の方を見た。飾りとして入った金の差し色が特に華やかだ。その数は増え続けていた。
お守りだけでなく飾りや絵馬なども、年末と同じくらいの勢いでよく売れていく。よくもこんなに頼み事があるものだ、と薬子は妙に感心した。信心する人が多いのはいいことだが、神様も手が足りないに違いない。
「さて、帰るか」
薬子は伸びをした。
ふと帰り道に屋台が並んでいることに気づく。最後に参拝客からお金を落としてもらうつもりなのだろう、よくできた仕組みだ。事実、子供連れはまず間違いなく屋台に立ち寄っている。
昔はここに大型のショッピングセンターもあったのだが、今は潰れて空きビルがあるばかりだ。
薬子は少しさみしい思いでビルを見上げる。継続を望む声もあったと聞くが、一等地の七階建てのビルを維持するだけの売上はなかったのだろう。ずいぶん買い物をしたから、寂しくなる。
薬子は黙ったまま、神社の前の道を右に折れてまっすぐに進む。この近くにあった中華料理店に行きたくなったのだ。
このところ油ものには飢えていたから、たまには食べたくなった。どうせ体に良くないものなら、早い時間に食べるほうがいい。
一人で入るのが恥ずかしいという友達もいたが、薬子はそんな感情をとうに捨て去っている。
安くて有名なチェーン店だ。かしましい家族連れから、むっつり黙ったおじさんまで客層は様々。
薬子は二十分ほど待って、カウンター席に通された。何年か前に来たきりだが、店の内装は大きく変わりない。椅子の合皮が張り直されて、少しきれいになった程度だ。
店内には中国語とも日本語ともつかない単語が飛び交い、薬子にはなんと言っているのか全く聞き取れない。しかし店の奥では、その声を聞いた料理人が大きな中華鍋を振っている。
薬子はすぐに店員を呼ぶ。アルバイトとおぼしき二十歳くらいの青年がやってきた。
「餃子一人前とチャーハンください」
「はい、かしこまりました」
後からデザートも頼めばよかったと思ったが、店員はもうせかせかした足取りで遠ざかっていた。店内がいっぱいなのだから当然だ。
「まあ、いいか」
コンビニに寄れば済むことだ。わざわざ店員の足を止めるまでもない。薬子は上げかけた手をおろした。
「お待たせしました、餃子です」
しばらく待っていると、笑みを浮かべた店員が餃子の皿を置いた。それにしても速い。長く見積もっても数分しかかかっていないのではないか。
濃いきつね色に焼き上がった餃子を見て、薬子は目を細める。熱くて最初は食べにくいのも、当時と変わらない。
薬子はチャーハンが来るまでしばし待った。五分ほどすると、チャーハンも無事に運ばれてくる。卵、ネギ、チャーシューを油と米でくるんだチャーハンは、自宅ではなかなか再現できない。
かりっとした食感は、学生時代いつも食べていた懐かしい味だ。このせいで体重が十キロ以上増えてしまい、戻すのがかなり大変だったことも同時に思い出す。それからしばらく、薬子は人目をはばからずばくばくと中華を食べ続けた。
足りないかな、と思ったけれど、注文したものを食べ終えるころにはもう満腹になっていた。二十代の頃よりは、胃袋が小さくなっているのかもしれない。
店を出ると、もう日は天の頂点を過ぎていた。時刻は午後二時。
最初は寒くて出かけたことを後悔したが、腹が膨れるとそんなことは忘れている。多少やらかしたから、明日は中華はやめて魚にしようか。
薬子は微笑む。心なしか、風も穏やかになっているように感じた。
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