第13話 回復(リハビリ)12 入浴剤

「冬になると、どうしてこんなに風呂が面倒くさいんだろう」


 誰も聞いていないのに、薬子やくこはぼんやりとつぶやいた。


 夏みたいに汗をかかないので、外出してから着替えてもさほど不快ではない。そのうえ、寒い。服を脱いだ時はもちろん、髪を洗った後など完全に乾く前にくしゃみがいくつも出てしまう。だから絶対に下着は替えるが、そのまま風呂に入らず寝てしまうことがよくある。


 でも、そんなことは外では言わない。大人としての常識を疑われる。──でも、入る気になれないのは変わりない。薬子は苦笑しながら、その日もそのまま床に入ってしまった。


 翌日、薬子は嫌々家を出た。ヘアサロンの予約があったからだ。


「さむ……」


 どこへ行っても、追いかけるように冷たい風が吹いてくる。羊のように、もこもこの毛皮を全身にまとえたらいいのに。


 日課にしていた散歩も、実は最近さぼりがちだ。薬子は首をすくめてマフラーの中に鼻の下まで埋まり、できるだけ最短距離を通って美容院に駆け込んだ。


「十一時にお願いしていた、青海です」

「いらっしゃいませ」


 上着を預けて席に座る。担当の美容師が後ろに立って挨拶をした。


 その時、彼女がわずかに顔をしかめたように見えて、薬子は真剣にどきっとした。


「すみません、もしかして……臭います?」


 今日着替えた服からか。それとも薬子自身からか。昨日と一昨日、二日風呂を飛ばしてしまったのは流石にまずかった。


「いえ、全然。先にシャンプーしますね」


 美容師は次の瞬間にはにこやかに笑っていたが、薬子は内心気が気ではなかった。せっかく楽しみにしていたシャンプーも、あまり堪能できずに終わってしまう。


 家に帰った薬子はうなだれた。良いと思っていたのは自分だけで、やっぱり他人に迷惑をかけていたのかもしれない。


「風呂、大事」


 やっぱり生きていれば、どうしたって垢はたまる。毎日それを洗い流さないと臭くなるのだ。日本人は大概の人が毎日お風呂に入るから、余計目立つのだろう。


 面倒くさい、を打倒するにはどうしたらいいか、薬子は真剣に考えた。


「入浴剤かな」


 毎日違う香りが楽しめれば、それを体験するために風呂にも入るかもしれない。そう考えた薬子は、しばらく実行してみて……一応、それはうまくいった。


 時々ドラッグストアに足を伸ばすと、店によって品揃えが違う。だから見慣れないものがあれば喜んで集めていたのだが……しばらくすると、問題が生じた。


「困ったな……」


 安い物は一通り使ってしまった。お財布が厳しいから、一袋三百円、四百円するものは買えない。瓶のものだともっと割安だが、毎日同じとなると飽きてきて、結局入らなくなるのは目に見えている。


 困った薬子はネットで「入浴剤 安い」と検索してみた。すると、聞き慣れない単語が混じった商品が出てくる。


「福袋?」


 洋服や小物は容易に想像できても、入浴剤にまであるとは知らなかった。商品のお得な詰め合わせであれば、なんでも福袋というのだろうか。


「うわ、六千円もするのか……。でも、百個も入ってる!」


 単純計算で一個六十円。薬子が今まで買っていた袋入りは、どんなに安くても百円はしたから、ほぼ半分の値段で調達できる。


 一回の出費は大きいが、後で取り戻せるなら。それになにより、面白そうでちょっとワクワクする。


「……今月カツカツになっちゃうけど、まあいけないことはないか……」


 薬子は記憶を頼りにつぶやいた。そして意を決して、首を縦に振る。


「よし、買った!」


 クリックしてから四日目、小さめの段ボールが薬子のもとに届いた。クレジットカードの請求額は一旦忘れる。


「もう買っちゃったんだから、後は楽しむしかない……!」


 薬子は気持ちを切り替えて、段ボールを開けてみた。


「わ」


 思わず声が漏れる。小さい箱の中にびっしりと、ビニール袋が詰まっている。二十個ずつの包みに入浴剤が分けられていたので、薬子はやや興奮しながら包みを開けてみた。


 さすがに有名なメーカーのものはなかったが、どれもちゃんとかわいい包装で、使うのが楽しみになった。


「定番のローズに、これはラベンダーか……」


 入浴剤にはいくつかの系統があるようだ。同じ系統ばかり余ってしまっても嫌なので、薬子は仕分けをしていくことにした。


 大きく分けて、温泉や和の香りを主にした「日本」チームと、ローズやジャスミンなど「海外」風のものに二分できる。そこからさらに小分けしていった。


「おお、これは日本温泉の旅だって。いつか母さん誘って、行けたらいいなあ……」


 薬子の実家から電車で北にしばらく行くと、有名な温泉街がある。小学校の旅行で一泊したことがあり、懐かしい思い出だ。確か蟹を食べた覚えがある。


 再就職できたら、旅費の貯金を始めよう。そして母とあそこに行こう。車中、くだらない話をたくさんしよう。薬子はそう心に誓った。


「柚子もいいなあ。あ、これは唐辛子だって」


 薬子は十分ほどかけてより分け、使う順番に並べた。それから風呂を沸かし、今日使う分を風呂場に持ち込む。


 最初の使用は、柚子の入浴剤。定番中の定番だ。薬子が浴槽に粉をあけると、ふわっと香りが広がった。市販の高価なものより果実の香りが薄めだが、それは値段と照らし合わせて我慢しよう。


 薬子は浴槽に体を埋める。


「うあー……」


 おじさんのような声をあげながら、体のあちこちをぐるぐる回した。どこもかしこも凝っていて、揉むと固い感触がある。薬子は湯の中でゆっくりマッサージをした。


 長く風呂に入っていたので、あがっても足の爪先までぽかぽかしている。薬子は微笑みながら、布団をかぶって目を閉じた。



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