第12話 回復(リハビリ)11 クリスマスマーケット

 窓をあけると、いきなり凍えそうなほど冷たい空気が部屋に流れこんできた。薬子やくこは首をすくめる。洗顔のために溜めてすくった水も冷たかった。


 とうとう暖房のスイッチを入れる季節だ。見上げるようにしてエアコンからフィルターを外し、埃を払う。


 加湿器も一緒に使うから、手入れをしなければならない。掃除をして、水をくんで大きなタンクを満たす。しゅうしゅうと軽い蒸気音がたつのを聞き、薬子はため息をついた。


 冬は嫌な季節だ。暖かければしなくていい仕事が増える。比較的温暖と言われる薬子の暮らす地域ですらこうなのだから、雪国の苦労は半端でないに違いない。食料の買い出しでさえ、雪をかきわけて行かなければならないだろうから。


 暗くて滅入るし、家の外に出ないから体重は増えるし──なにより暖房費が高い。狭いワンルームマンションなのに、毎月請求書を見ると血の気が引く。


 だから冬は嫌いだ。実りの秋を過ぎてしまったら、いきなり春になってくれないだろうかと、毎年思う。


「昔は、嬉しかった時期もあったけどな……」


 喜々として冬のある日を待っていたのは、薬子だけではなかったろう。そう、クリスマス。


 チキンやケーキを食べて、みんなでゲームをして、そして眠った翌朝には枕元にプレゼント。クリスマスの翌日にも同じことが起こっていないかと、図々しい思いを抱いたものだ。


「サンタクロースって、大人には来ないんだよね……お金出さないとさ」


 薬子はネットを見ながら呟いた。画面の中では、たくさんのサンタが微笑んでいた。クリスマスのほぼ一ヶ月前から店はすでに商戦に突入していて、広告は赤と緑で溢れている。今がまさにピークだ。


 ふっくらとして赤い頬なのはほぼ共通だが、悪戯っぽいもの、慈愛にあふれたもの、ずいぶん若く見えるもの。どれが正式なサンタなのだろう。法子はクリスチャンだったから、けっこうクリスマスの絵本なんかも買ってもらったが、もう内容も思い出せない。


「この時期の店って強気なんだよね」


 十二月にボーナスが出る企業が多いから、どこも少し豪華だったり、変わった商品を並べている。薬子だって財布が許せば買いたいが、そういうわけにはいかない。


「……ま、買えてお菓子くらいかな」


 それでも行こうと思ったのは、薬子もやっぱりこのイベントに参加してみたかったからかもしれない。しばらくそっぽを向いていたが、久しぶりに世間と同じ空気を味わってみたかったのだ。


 私鉄を使い、三十分ほど揺られて会場の百貨店へやってきた。


 会場はまだすいていた。夜になれば恐ろしいほど混むのだろうが、今は人と人との間隔が十分にあいている。


 だから、会場に入った瞬間、薬子の目にもそれが見えた。


 天井から釣られた金属が、見事なツリー形になっていた。緑の骨組みの間に、金銀の飾りが輝きながら揺れている。その配置具合も絶妙で、地味でもなければうるさくもない。


 今年のテーマは「雪のクリスマス」らしく、ツリーの下には雪の結晶をかたどった飾りが円形状に置いてあった。それはライトの光をあびてきらめき、七色に変化していく。


 薬子はツリーの柵の前に立って、しばしそれを見ていた。


 まあ、今がものすごく幸せだとも言わないし、浮かれた人を見て引け目を全く感じないわけではないけれど。──それでも、ここはいいところだ。薬子はそう思った。


 ツリーがちょうど会場の中央にあって、北側にイベントスペース。そして南側に店が並んでいる。


 ツリーに目を奪われている客に場所を譲り、薬子は店巡りを始めた。


 クロスや人形、クリスマスカードやリボン。様々な店の中に、甘い匂いのするお菓子の店があった。薬子はそちらに自然と引き寄せられていく。


 店先には大皿が並んでいて、そこにたくさんの焼き菓子が並んでいる。皿の左右に違う菓子が入っている物もあって、見た目も華やかだ。グラム単位の量り売りで、どの菓子を選んでも重さが一緒なら値段は変わらない。


「クッキーにシュトーレン……これは、ヴィクトリアケーキ?」


 全部買う、と言えるような甲斐性のある客ではないが、説明書きを読んでいるだけでも楽しい。薬子は気にいった数点をボックスに入れ、会計所へ向かった。


 本当に肉を買うときのように、秤にのせられて会計が出る。少し控えめに取ったので、会計は千円以内でおさまった。お茶の時に大事に食べよう、と薬子は大事にエコバッグにしまう。


「お買い上げのお客様には、こちらもお渡ししております」

「へ?」


 いきなり星形の紙を渡されて、薬子は少し困惑した。紙には穴が開いていて、金色の紐が通してある。


「ここにクリスマスのお願いを書いて、ツリーに結んでください。サンタが願いを叶えてくれるかもしれませんよ」


 振り返ると、確かに同じような星の付いたツリーが会場のそこここにある。断るのも悪い気がして、薬子はそれを受け取った。


「再就職……は生々しすぎるか」


 紙をのぞけば、誰でも他人の願いを見ることができる。薬子はこの場の空気を読んで、結局「家族が健康でありますように」と書いた。


 薬子は会場の東側にあったツリーの前に立った。紙をできるだけ見えないところにくくりつけて、手を合わせておく。寺でも神社でもないが、なんとなくお願いする時はこのポーズの気分だ。


 少し故郷を懐かしんだ後、薬子は店内の散策を再開する。ツリーのオーナメントをひやかした後、隅の方にあったチョコレートの店に立ち寄った。テーブルの上には、色とりどりのイラストが描かれた包装チョコレートがずらっと並んでいる。


 小さめのサイズもあるが、一番数が多いのは、コンビニでも売っている板チョコくらいの大きさだ。この方が包み紙が大きくて、絵柄がよく見える。


「すごいですね。毎年こんなに数があるんですか?」


 答えたのは女性店員だった。ふくよかで笑い顔のため、異常にサンタ服が似合って見える。


「ええ。種類は毎年同じくらいです。絵柄は入れ替わりますけど」

「これ全部、来年には買えないってことですか?」

「いえ。こちらから右手が定番、左側が新柄です。左手側は今年のみのお作りになりますね」


 定番と新作が、ちょうど半々くらいで置いてある計算だ。


「毎年違う絵柄をプレゼントにされる方もいらっしゃいますし、一年の締めくくりに同じ物を買う方も……人によって、使い方は様々ですね」

「……ちなみにおいくら?」

「こちらで税込み千八百円ですね」


 板チョコ一枚でこの価格はさすがに百貨店価格だ。薬子はつつっと、後から来た人に場所を譲った。


 中には迷いなく何枚もまとめ買いする人もいるが、たいていの人はどのデザインにしようか話し込んでいる。薬子は微笑みながらそれを見ていた。


 楽しい気分のまま会場を出て、雑踏の中を薬子は歩く。どうせ時間はあるのだから、他のツリーがある場所にも足を運んでみよう。薬子はそう思った。

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