第11話 回復(リハビリ)10 ゼンタングル

 アートの一種らしいが、聞き慣れない名前だ。なんだか日本語なのか英語なのかわからなくて、変な感じがする。


 見本として飾ってあるのは、白黒のペンで書かれた様々な紋様。よく見ると、小さな三角や丸、四角などがびっしり絵の中に詰まっていた。


「体験してみますか? もうすぐお席があきますよ」


 薬子やくこに気づいて、スペースの女性が声をかけてきた。


「でも、私には難しそうかな……」


 薬子は口ごもった。昔、美術の先生に授業のたびにため息をつかれていたことを思い出す。


 しかし女性は、それを聞いても笑みを崩さなかった。


「まだ新しいアートなんです。二〇〇四頃、アメリカで始まったと言われています。専門的な技工や観察眼が必要な普通の絵画と違って、ただ点や円、線が描ければ簡単にできますよ」

「そんなものなんですか?」

「皆さんそうおっしゃいますが、いつも終わる頃にはきれいにできたとお喜びですよ。同じ作業を続けることで精神が安定し、瞑想に似た効果も得られるといわれていますし」

「本当にそれだけで?」


 薬子は少し瞑想をやってみたことがあったが、今まで詰問された記憶や悔しかった思い、それに孤独への恐怖がよぎってあまり集中できなかった。手を動かして絵を見られるなら、黙って目を閉じているより負担が少ないかもしれない。


「ええ。それに、これは日本と無関係じゃないんですよ。日本の『禅』と、英語の『tangle(絡まる)』って単語の合体で、ゼンタングルっていうんですから」

「へえ……」

「一度やってみませんか?」


 とうとう薬子はうなずき、講師に言われるがまま席に腰を下ろした。一心に作業している女性二人に囲まれた格好だ。軽く頭を下げるが、集中している彼女たちから返答やリアクションはなかった。


 講師と相談した結果、結局真ん中くらいの難易度の作品を作ってみることになった。


 目の前には白い紙と、鉛筆。それに見慣れないペンが置いてあった。準備してあるのはそれだけ。他のブースにはインクや色紙がたくさんあったから、ずいぶん殺風景に感じる。


「では、アルファベット一文字に、何かお好きな動物を足してかわいらしいアートを作りましょう」

「動物……」


 なんか早くも話と違いませんか、と眉をひそめる薬子を放置して、講師は見本を持ってきた。


「どんなアルファベットにしましょう?」

「じゃあ、『A』で」


 薬子は無難に自分のイニシャルを選んだ。サインペンで書いただけのそっけない「A」が、画用紙の上に立ち上がる。薬子はもうこの時点で顔を背けたくなった。


「じゃあ、この線を細いペンでなぞって太くしてみましょう。太くして角を尖らせるだけで、格好良くなりますから」


 薬子は半信半疑だったが、完成品を見ると軽く驚いた。確かに、さっきよりずっと「見られる」ものになっている。


「端をちょっと尖らせても格好良くなりますよ。そうそう。できたら、一番細いペンで外周をぐるっと囲みましょう」


 薬子は、講師が持っていたのと同じペンを手に取る。ペン先はずいぶん細い。線が震えないかと、不安になってきた。


 その不安を見越したように講師が笑う。


「手の力を抜いて、すっと書くだけでいいんですよ。間違えたら塗りつぶしたり、線を足したりすればいいんですから。気持ちは楽に、楽にですよ」


 薬子は講師の言葉に耳を傾ける。その言葉を心の中で繰り返し、なんとか書き終えて顔を上げた。


「うん、キレイですよ。そろそろここで動物を入れてみましょうか」


 最大の難関がついにきた。


「……みんな、一体何を描いてるんですか」

「犬とか猫が多いですかね? あ、来年の干支なので兎もけっこう見ますよ」

「記憶がうろ覚えなんで、スマホ見てもいいですか……」


 若干スマホを探る指がぎこちない。講師の視線を感じながら、薬子は画像を検索した。できるだけ単純なキャラに落とし込めるやつ。変な毛とか模様が入っていないやつ。


 そしてついに、最適な動物を見つけた。その名は──


「これにします。シマエナガ」


 白と黒のみのシンプルな体。ぶっちゃけ丸と三角が描ければなんとかなりそうなフォルム。存在してくれてありがとうシマエナガ。


「かわいいですね。では、好きなところに描いてみてください。薄く鉛筆で下書きしてもいいですよ」


 薬子はなんとなく、翼を広げているイメージで下書きを書いてみた。丸と三角を組み合わせると、単純な形でもどうにか鳥のように見えてくる。目を入れると、なんとか薬子の絵でも可愛い感じになった。……多少潰れたような格好ではあったが。


「これでメインのところは完成ですね。後は字の周りにもう一本線を入れて、ぐるっと囲んで」


 薬子は言われるままにした。単純作業だから、さっきよりは簡単だ。


「じゃ、その線の中を埋めてみましょう。たくさん丸を書いたり、三角に区切ったり。いまいちだと思ったら、さっき言ったみたいに塗りつぶしてみてください」

「わかりました」


 難しいかと思ったが、薬子は大小様々な丸を描いてみることにした。当たり前に描けそうで、キレイに丸を描くというのは思った以上に難しい。


 書きやすいように紙を傾けながら、縁取る。


 一心に黒いところを塗りつぶす。過去のことも気にせず、未来のことも心配せず、集中してただひたすらに丸を描く。まるで子供の頃のお絵かきのようで、薬子は夢中になっていた。


「できました」


 終わったところで顔を上げた。息を詰めていたことを知り、口を開くと肺に空気が入っていく。ずいぶん時間がたつのが、ゆっくりに感じていた。


「可愛い作品ですね! 少し色をつけてみましょう」


 講師はそう言って、不思議な物体を出してきた。あえて言うなら、色鉛筆の芯だけを取りだして、それをクレヨン程度まで太くした感じ。


 それをパステル、というのだと分かったのは後で調べてからだった。顔料(色の元)に、粘着剤と粘土などを混ぜて固めたもので、手で持って描くこともできる。


 この時の薬子には分からなかったから、講師がカッターでその塊を削るのをただ眺めていた。


「この削ったのをどうするんですか?」

「指でこうやって紙につけるんです。うっすら色がついて、よりかわいらしいイメージになりますよ」


 削った色の塊を、注意深く指を使って紙になすりつけていく。文字の周囲をピンク色に色つける。シマエナガは完全に白黒でどう頑張っても色が付かないので、鉛筆の下書きをこすってぼかし、影を作った。


 これで完成。まあ、動物部分もあってキレイな出来映えとは言いがたいが……なんとなくとぼけた感じで、愛着がわいていた。


「これで終わりにしていいですか?」

「はい、大丈夫ですよ。素敵にできましたね~」


 完成のおまけとして、講師が写真立てをつけてくれた。受け取って作品を入れる。感動したとまではいかないが、達成感があって気持ちよかった。


「持って帰って飾ってみてください。お家で新たな作品を描かれたら、入れ替えることもできますし」

「新たな作品……」


 薬子の頭の中で、算盤がぱちぱちと鳴った。切り詰めて生活しているから、自然と身についてしまった特技だ。


「ペンだけなら、数百円でそろいますよ。紙もにじまないものならなんでもいいので、画用紙とかでも」


 お金のない薬子には、ありがたい娯楽だった。……そろそろ住民税の請求が来る頃だ、と頭の片隅で理性が告げている。


 薬子が材料を買って帰宅した頃には、夕方になっていた。あまりお腹がすいていないので、ご飯と味噌汁で軽く済ませる。


 それから卓の上を片付けて、買ってきたペンと紙を取りだした。


「今日の瞑想、始めますか」


 壁に近いところに置いた、自分の作品を見ながらつぶやく。薬子はそうしてしばらく自分と会話し、作品を一枚仕上げて床についた。


 寝る前に、床の中で薬子はある会話を思い出す。最後に講師は、こう言っていた。


「この作品、写真にとってSNSにあげてもいいですか?」


 あのとき、断ることは簡単にできたはずだ。それでもそうしなかった。


 薬子の胸の中は、ひとつの感情で満ちていた。なんだか認めてもらったようで、嬉しい。それははっきりと分かっていた。


「……私も何か、発表する場が欲しいな……」

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