第9話 回復(リハビリ)8 ダイエット

「嘘」


 薬子やくこは思わず震え、体重計から目を背けた。しかし、目を戻してみるとまぎれもない現実がそこにある。精一杯着る物を減らしてみても、おっかなびっくり、つま先立ちで乗ってみても数字は変わらなかった。当たり前だ。


 顔に血液が集まっていく感覚がある。


 そういえば、辞める数ヶ月前からドカ食いをしていた。仕事が終わった後、叱られるたびに。早く帰れれば百貨店、遅くなればスーパー、もっとひどい時はコンビニ。食料を用意できるところは山ほどあったのだ。


 しかも誘惑に負けて買うのは、味の濃い揚げ物やお菓子ばかり。それを数人前食べていたら、あっという間にデブのできあがりだ。


「でも、ここまで増えてたなんて……」


 ここのところお金がなくなって自然と適正カロリーになっていたと思うが、それでも補えなかったということだ。


 体重計などない方が残酷な真実を知らずに……いや、それは現実逃避をしているだけで、見なければ余計ひどいことになるに違いない。


「……早く逃げてれば良かったな、あの職場……」


 薬子はひとしきり、もう関係がなくなった職場に向かって呪いの言葉を吐いた。最低、許さない、飲食代にかかった金返せ、私の脂肪をくれてやる──


 しばらくやって、空しいだけだと気づいた時には喉がガサガサしていた。今更言ったって仕方無い。


 辛い目にあったのは薬子が悪いのではない。だが、自分の体に全く注意を払ってこなかったのは薬子のせいだ。薬子はがっかりしながらも、朝食の準備を始めた。


「……パンはやめとこ」


 自然、食卓がしょぼくなってため息が漏れる。おかずをじっと見つめたが、パンのないジャム瓶が行き場をなくして困っているようだった。


 糖分がないからか、頭がぼんやりして気力がわかない。薬子は悩んだ末、少しだけ蜂蜜をなめた。その匙を置いてから、薬子は顔を上げた。


「よし、運動しよう」


 体重計の機嫌をとったところで何が変わるわけではない。痩せたいなら食事と運動、それしかないのだ。薬子は毅然として立ち上がった。


 ジムに行くお金はないし、筋トレは正しくできる自信が無い。だったら少しでも歩こう。幸い失業中で、時間ならたくさんある。


 スマホで近くを調べてみた。薬子の家から南側に、大きな道がある。そこを道なりに歩くと、港に近い開けた場所に出た。さらにそこから東側に進むと、「みなと運動公園」と案内が出ている。離れた所に大きな運動公園があるから、名前で区別しているのだ。


 外に出ると、吹き付ける風が強くなってきた。冬が近付いて冷たくなったそれを受けて、薬子は首をすくめる。


 公園に入って周りを見回した。ビル街にあるにしては、大きく土地がとってある。中央に大きく芝生のエリアが有り、たくさんの親子連れがボールやフリスビーで遊んでいる。


 ちょうどフェンスで隠れる格好になっているから分からなかったが、バスケットやスケボーの練習場もある。公共施設でそんなものもあるのか、と薬子は驚いた。


「試しに歩いてみるか……」


 芝生エリアをぐるっと囲むように、ランニング用のトラックがある。薬子は靴で地面の感触を確かめてから、歩き出した。


 惨めな腹肉が揺れる。薬子は唇を噛んだ。ちょっと歩いただけで、背中が傾いて猫背になっている。失われた筋肉は、そう簡単にはつかないだろう。


 息が上がって、薬子はマスクを外して呼吸する。運動するのがこんなに辛いとは思わなかった。


 すると突然、後方から誰かが飛び出した。ショッキングピンクのウェアをまとった、小柄な女性ランナーだ。


 すらっとした足。嫉むのも忘れて、薬子はそれに見入った。


 そのまましばらくぼうっとしていた。我に返って前方を見やっても、もうランナーの姿はない。とっくに薬子を置いて、走り去っていた。二度と会うことのない相手なのが、惜しかった。


 正しいケアを続けていれば、いつかあんな足になれるのだろうか。少なくとも、それは年単位で先な気がするが。


「よし」


 うらやましがっていても仕方無い。ランニングコースの先をにらむ。薬子は口元のマスクを直し、ゆっくりとまた歩き出した。


 気付いた時には、一時間が過ぎていた。理想の距離は分からないが、これくらい歩けば初日としては上出来だろう。


 顔を上げると、家族連れがお弁当を広げていたり、犬がフリスビーを追いかけているのが見える。離れたところで、コーチの話を聞くダンスチームらしき姿もあった。


 子供のはしゃぐ声を背に受け、薬子は公園を後にした。信号待ちの間、首をぐるぐる回す。運動不足の足が早くも痛んだ。


 しかし帰る時には、薬子はさっぱりとした顔をしていた。

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