第2話 回復(リハビリ)1 掃除

 退職を申し出ても、そのまますぐにさようならとはいかない。結局薬子やくこは翌日も死なずに出勤し、朝礼で退職が決まったことが発表された。


 皆は少し驚いたような顔をしたが、その衝撃が長引くことはなかった。そうだったのか、という程度で、少し話をしたらもう今日の仕事の打ち合わせに入っていく。


 てっきりかわるがわる詰問されると思っていた薬子は、拍子抜けしてしまった。


 その程度の繋がりだったのだ。一日何時間も濃密な時間を共にしていたように感じたが、所詮は辞めてしまえばもう会わなくなる程度の仲。


 それに、されていたこともおかしかった。


 今した失敗だけでなく、過去の失敗まで掘り起こすのが本当に薬子のためだったのか。執拗に就業時間後に居残りさせ、落ち度をあげつらうのが本当に薬子のためだったのか。


 薬子のためでなく、ただ弱い者を虐めて喜んでいただけではないのか。


 ……今まで指導してくれた上司の顔が浮かぶ。彼ら彼女らは確かに厳しかったが、きちんと薬子ができていることも認めてくれた。吐き捨てるようには言わず、薬子が落ち着いているか確認してから話してくれた。だから薬子も、何を言われてもここまで負担に感じることはなかった。


 そういう情のようなものが、今の会社では一切感じられなかった。薬子の苦痛は、取るに足りないものとして放置された。


 そんな薄情な関係者のために、自分は八つ当たりのように死のうとしていたのだ。がむしゃらになりすぎて、周りが全く見えていなかった。今までなかった怒りの気持ちがこみあげてくる。


 途中で引き返せて、本当に良かった。


 顔を上げる。目頭が熱かった。夕暮れの中に、町の明かりが見えた。広い道路の端で立ちつくすわけにもいかず、のろのろと薬子は歩き出した。しだいに、闇から逃れるように駆け足になる。


 釈然としない。だが、生きたいとは思う。ぼろぼろ流れる涙は間違いなくまっとうな生への執着で、このまま惨めな気持ちでいるのは嫌だとも思う。


 でも、積極的に何かを始めるには、圧倒的に力が足りない。自分の能力についても、まだ信じられない。侮蔑され、踏みつけにされた期間が長すぎた。


 涙をハンカチで拭いて、ついでに思いっきり鼻もかんでやった。家に帰ろう。そして休もう。再び力を取り戻すためには、リハビリが必要だ。



 薬子は起きてからスマホの画面を何度か見た。そして静かにため息をつく。


 現在、朝の六時半。退職に伴う手続きはすっかり終わり、今は有休消化中。何をしなければいけないということもない、自堕落な生活だ。


 しかしどこにも行かなくてもいいというのに、体はきっちりいつものリズムを覚えていた。……早起きしたところで、誰が評価してくれるわけでもないが。


 ようやく最近眠れるようになってきたし、時間もできた。ただ、遊びに行く気にはなれなかった。なにせ、来月からは給料が入ってこない。全く貯金がないわけではないが、無駄遣いはできないのだ。


 せめて散歩でも、と商店街に出向く。通路には明るい音楽がかかっていて、薬子だけ町から浮いたようだった。


 ふと、新しくできた店を見つけて足が止まる。日本一の出展数を誇る、百円均一チェーンだった。古かった洋服屋が潰れて、いつのまにか入れ替わっていた。


 なんとなく興味を引かれて薬子は店内に入る。気になる物があっても百円だ、という気安さがそうさせていた。


 店に入ってすぐのところに、壁掛けのカレンダーが飾られていた。その横には小さな卓上タイプもある。シンプルなものからキャラクターのついたものまで、デザインも多彩だ。小さな子供を連れた母親が、楽しそうに絵柄を選んでいた。


「もうこんなものが売られるシーズンになったわけね……」


 どうしてもこれからのことを考えてしまう。泣いたら周囲に不審がられるだろう。薬子はため息をついて、棚から離れた。他の人なら自然に考える事でも、今は負担に感じる。努めて意識しないと、また後悔してしまいそうだ。


 刺激は少ない方がいい。大勢集まらなくても良くて、できるだけ自宅でできるもの。そんな暇つぶしが、何かないだろうか。


 入浴剤か。でも百均のものは香り・色共にいまいち。


 手芸キットの売り場にも力が入っていたが、薬子には難しそうだ。なんだかよくわからないクリーチャーを製造する羽目になるに違いない。


 落胆しながら店を出ようとした時、壁際にずらっと雑巾がかかっているのが目に入った。その並ぶ雑巾から、薬子は目が離せなくなって、しばしその場にたたずむ。何でも売っているとは思ったが、今までほとんど存在も知らなかったのに。


 店で流れていた曲が切り替わった。薬子はようやく動きだし、ぶら下げられていた雑巾を手に取った。薄くてぺらぺらだが、四枚で百円ならそんなものだろう。


 薬子はそれを購入して、家に戻った。さてやるか、と腕まくりした次の瞬間──


「とわった」


 掃除をする前に、部屋のゴミに足をとられてしまった。よく見ると、テレビで放映されている汚部屋一歩手前、という状態である。追い詰められていると、自分の部屋さえよく見えないものなのかと薬子は唸った。


「よし!」


 バケツを引っ張り出してきて、水を張り雑巾をその中に放り込む。濡れて沈んだそれを力をこめて絞り、まずは洗面所の扉に向き合った。


 中腰のまま、扉にたまった埃を拭き取っていく。狭いスペースを拭いただけなのに、あっという間に雑巾に黒い筋が入った。そのまま扉を拭いていくと、線がどんどん太くなる。


 ついに扉を拭き終わったころには、雑巾全体が黒くなっていた。いさぎよく、雑巾をゴミ箱に放り込む。ついでに拾ったゴミを上に載せて、足先で体重をかけて押しつぶした。


「……ふう」


 汗をかいていて、軽く下着が肌に張り付いている。自然と口が開き、声が漏れた。


 たちまち全部片付く、というわけにはいかないが、心がすっきりした。感動したなんていうほど大それたものではないが、目に見える成果があったことで少し楽になった。


 綺麗になった一角を指さし確認してから、薬子はバケツの水を風呂場に捨てた。底にたまっていた黒い埃を洗い流してから、綺麗な水で新しい雑巾をしぼる。まだ雑巾は三枚残っているから、次は何所を拭こうかと思案し始めた。


 今は、今できることしか考えない。未来がどうなっても、その時はその時だ。

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