第3話 回復(リハビリ)2 お茶

 暖かいお茶を飲もう。そう思ったのは、空をどんよりとした鼠色の雲が覆い、寒くなりはじめたことと、もう一つ。


「うわ、こんなにあった……」


 荒れた部屋を綺麗にする試みは、まだ続いていた。つま先立ちをして食器棚の掃除をしていたら、薬子は大量に缶があることに気づいた。


 すっかり忘れていたが、過去にストレスがたまっていた時に、発散の一途として買い物に走ったことがあった。その時たまたま世界のお茶が百貨店に集まっていて、爆買いしていたようだ。


 軽く缶を振ってみると、さらさらと軽い音がした。しけってはいなさそうである。蓋をあけて怖々覗きこんでみたが、特に変なにおいもしなかった。


「高かったんだよなあ、これ」


 かかった金額を計算することを、脳が拒否している。


「あれ……そういえば、急須がない」


 薬子は困ってしまった。そういえば、お茶を買いすぎて重かったため、急須やポットはまた今度にしようと思ったような気がする。そのまま忘れて、茶葉だけ家にあるというおかしな事態になっていたのだ。


 買い物に出て戻ってきた薬子は、卓の前に座る。目の前には、スーパーで買ってきた安売りの大福、それに百円ショップで買った急須。


 さすがに100円とはいかず300円の商品だったが、普通に買うよりは安上がりだろう。ちゃんと中に茶こしまでついていてびっくりした。


「利益、出てるのかな……」


 つぶやきながら蓋を外し、袋から直接茶こしに茶葉を入れる。半分くらい入ったところで手を止め、ポットでお湯を沸かし始めた。


 蒸らして数分、薬子はあることに気づいた。


「……これはいつまで待てばいいんだっけ?」


 腰をかがめてしばし待つ。少し注いでみて色がついていたので、それで良しとすることにした。最後まで注ぎきってみると、想像より美味しそうな色がついている。


 小皿を引っ張り出し、大福をのせて卓に置く。そしてリモコンでテレビをつけた。


「史上最年少で文学賞受賞! お気持ちはいかがですか?」


 テレビはちょうどトーク番組の真っ最中だった。中学生の女の子にレポーターがマイクを向けている。高価そうな制服を身につけた女の子は落ち着いて答え、すでに貫禄すら感じさせた。


「まだ中学生なのに受賞かあ……将来が楽しみだねえ」


 親戚のおばさんみたいなことをつぶやいた薬子の脳裏に、するっと次の言葉が滑り込んできた。


 お前の今までの人生は、無駄なことばっかりだったな。

 あの子と比べて、どう思う?


 不意に、画面の虚無に自分が引きずられるような感覚をおぼえ、薬子はテレビのリモコンに手を伸ばした。力をこめてボタンを押し、画面を真っ黒にする。


「しばらくテレビ見るのもやめよう……」


 他人のいいニュースなら自分と比較してしまうし、悪いニュースなら自分にも起こるかもと不安を煽られる。どちらにせよ、良い状態ではなかった。


 淡々と暮らすということは、簡単なようでいて案外難しい。


「ふう」


 お茶の渋みと甘味が、薬子の表情を和らげてくれる。飲みながら大福をかじると、味が混ざり合ってより美味しい。


 ちょっと前屈みになってお茶を飲んでいると、定年退職したおじいちゃんのようだ。飲み干すと、気持ちが落ち着く。ごろっとベッドに横たわると、足に血が通う感覚があった。


 これから何年も働かなくてはいけないという事実は、一旦忘れて昼寝をすることにした。心地よい眠りが、次第に薬子の全身を包んでいく。


 とうとう眠りに落ちようとしていたその時、電話がけたたましい音をたて、薬子ははっと我に返る。


 自分に似た声がした。


「風邪なんかひいてない?」


 心配してかけてくれた母、法子ほうこの電話だった。忙しいからとメールで済ませることも多いが、たまの日曜にこうやってかかってくる。


 法子は薬子を産んだとき高齢出産だったため、すでに仕事を退職していた。彼女の口調には、余裕が感じられる。今は電車で二時間ほどかかる田舎に住んでいて、気ままな一人暮らしだ。


 いつまでも嫁に行かない娘に口うるさく言う時期もあったが、もはや完全に諦められているのか、結婚の話は出ない。


 正直、誤魔化さなければいけないのは辛かったが、出ないともっと怪しまれるだろう。親子の関係というのは、他人でない分面倒くさい。


「うん、大丈夫」

「今日はどこも行かなかったの?」


 薬子が受話器を握る手に力がこもった。


「仕事は順調?」

「……うん、まあまあね。忙しいは、忙しいけど」


 嘘をついてしまった。これでもう、引き返せない。苦々しく思う気持ちはあったが、薬子は会話を続けた。


「ほら、昇進したじゃない? それで新しく任される仕事が増えて、主任と一緒にいる時間が長くなったの。細かい人だから、ちょっと疲れるかな」


 隠し通すしかないのだ。こんなこと母に知られたら、「情けない」と叱咤されるに違いない。母はフルタイム中のフルタイム、教師を四十年近く勤め上げたキャリアウーマンだ。


 転職経験すらない母に、仕事が辛いなんて打ち明けることはできなかった。仕事を辞める時に、少し難色を示されたこともある。退職してからストレスがなくなったためか丸くなったが、まだ油断はできなかった。


「そう。今は帰省するわけにもいかないし……何か要る物があったら言ってちょうだい。宅急便くらいは取れるんでしょう?」

「日曜日の夕方とかなら、大丈夫かな……」

「そう、じゃまた荷物送ったらメールを入れるわ」


 母が仕事の内容にさして興味を示さなかったことに、薬子はほっとした。そのまま母に怪しまれることもなく、ありきたりな別れの挨拶をして、電話を切る。


 電話を握り締め過ぎて、手が若干白くなっていた。その手をさすりながら、薬子はずっと心の中でつぶやいていた。ごめんなさい、と。


 そしてこうも思う。いつか再就職して必ず打ち明けるから、その時まで待っていてと。



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