病み女子薬子の回復(リハビリ)生活

刀綱一實

第1話 パワハラで病む

 追い詰められていた。今すぐ死ねと銃を突きつけられているとかそういうわけではなかったけれど、青海薬子あおうみ やくこは圧倒的に追い詰められていた。


 目覚ましが鳴った。のろのろと寝返りを打ち、それを止める。


 薬子は目を開け、天井を見つめる。コンクリートの打ちっ放しの天井から、備え付けのライトが下がっていた。ベッドから身を起こせば、十畳程度の広さの部屋が目に入る。住んで十年近くになる部屋は、ところどころ埃がたまって生活感を醸し出していた。


 布団はしばらくまともに干せていないため、ぺたっと薄くなっている。それを気力で無理矢理はいで、薬子は起き上がった。


 今日こそは役に立たなければ。今日こそは悪い流れを変えなければ。そう思いながら、着替えをすませる。


 鏡の中の自分はひどく苦しそうな顔をしていたが、見ない振りをした。






 薬子は小さな町の薬局で働いていた。同僚は四人。その中の一人が店長で、もう一人が主任。薬子は役職なしだったが、今年から副主任に昇格した。


 しかし薬子は苦戦していた。新しい仕事がどんどん増えていく。最初は覚えようと頑張っていたのに、今はもう仕事内容が頭に入らなくなっていた。


「あなた、一人分の給料もらってるんでしょう? だったらまともに働いたらどうなの」

「すみません……」


 また小さなミスをして、主任から指摘を受けた。言い返したい気持ちはあるが、気圧された薬子の口からは謝罪しか出てこない。ゆっくり考えようとしても、現場は常に動いていてそれを許してくれる状況ではなかった。


「さっきからそればっかりね。具体的に何か言ってみたら?」

「あの……」


 薬子は主任の渋い顔を見て言いよどむ。そこで運良く患者が来て、会話は途切れた。


 気づかない。気が利かない。そんなことを折に触れて言われる。


 気づいていないわけではないのだ。しかし、薬子の提案が間違っていた場合、心底馬鹿にしたような様子で鼻を鳴らされる。それが徐々に負担になり、精神的に辛くなってきて、結局何もできなくなってしまった。


 仕事が終わった後、できていなかったことを書きだして提出する。もちろんこんなことをしているのは薬子だけだ。書き出す度に、露骨にお前は愚かだと言われているようで、涙をこらえるのに必死だった。


 そしてようやく書いたら、ミーティングと称してつるし上げが始まる。主任や店長たちが薬子を取り囲み、詰問が始まる。十数分で済めばよい方で、この前は業務が終わってから三時間以上も叱責がやまなかった。家に帰った時には夜の十一時を回り、どうやって翌日出勤したかも覚えていない。


 今までこんな職場には当たったことがない。そして、今までこんな指摘を受けたこともないし、問題社員と言われたこともない。


 運が悪いとしか言いようがなかった。


 運が悪くなる時というのは、加速度的に悪化する。そして抵抗も出来ずうろたえている人間を、ぶちっと踏み倒してそれまでだ。逆転なんて、ドラマの中だけ。たいていの人間はそれで終わりだ。


 チャンスをつかめる人間と今の自分とは、一体何が違ったのだろう。


 それを考えるだけで、どっと疲れてきた。息が詰まる。呼吸はしているはずなのに、肺に空気がうまく行き届かない。


 休憩時間になったが、職場にいたら一瞬たりとも気が抜けない。薬子は「やらかす奴」としてすでにマークされていて、何か少しでも気に障ることをすると針のような言葉が飛んでくる。最近では遠回しに言われることより、直接叱咤される方が増えた。


 もう限界なのだ。そのことは分かっていた。じわじわと精神を殺されていき、それに伴って肉体も死んでいく。


 それでも怖かった。薬子はそんなに優れた資格やキャリアがあるわけでもないし、三十過ぎで短期離職も二回ある。同期の中にはスカウトで転職する者もいたが、薬子にはそんなものは夢のまた夢。ここを辞めたら、同じ条件で雇ってもらえるという保障はどこにもなかった。


「多分病気なんだろうな、私……」


 薬子はその少し前に昇進していた。それに伴うプレッシャーと仕事の変化で、体に負担がかかっていたに違いない。認めて治して、最初からやり直すしかなさそうだ。


 薬子は涙をぬぐって、ある病院に予約の電話をかけ始めた。




 薬子が受診したのは、雑居ビルに入っていたメンタルクリニックだった。おどおどしている人間など見慣れているのか、受付の女性は事務的な処理をしただけだった。


 薬子の前に入っていた痩せた女性が診察室から出てくる。迷いながら診察室に入ると、眼鏡をかけた痩せ型の男性医師がそこにいた。見た感じ、そんなに高圧的には感じない。


 薬子はつっかえつっかえしつつも、ようやく症状を話し終えた。


「おそらく、適応障害の初期でしょうね」

「はあ」


 有名人がかかったこともあって、薬子も病名くらいは知っていた。ある環境に適応できないことで、不安感や抑鬱症状が出現。ひどくなると遅刻や欠勤にもつながり、社会活動に支障をきたす病気だ。


「あなたはまだ仕事に行けているから症状は軽いが、悪化の可能性はある。ストレスの原因から離れるのが一番いいんですが……部署の移動などは出来ないんですか?」

「小さな会社なので、支社も別のお店もありません」

「……それでしたら、根本的な治療は休職か、転職ということになってしまいますね。今すぐに、どうしたらいいか決めるのは難しいでしょうが」

「はい……」

「少しのんびりして、自分の好きなことをなさるのが一番の治療ですよ。焦らない方がいいです」


 想像以上に手厚く話を聞いてもらった。思ったことの半分も言えなかったが、それでも向こうから質問してもらって大事なことは言えたと思う。医師は症状を理解し、軽いが薬も出された。


 クリニックでやれることは全てやったと思う。今後のことをどうするか……気が重いが、職場で相談してみるしかなかった。





「あの」


 朝礼の終わりの時に、薬子は皆に声をかけた。


 薬子は主任を見上げた。彼女の方が背が高いので、自然と上目遣いになる。


「体調不良? 眠れなくてメンタル原因かもって? それはいつ治るの?」


 ──ありえない。いつ良くなるかなんて、薬子が一番知りたいくらいだ。患者相手にはあれだけ気を遣えと言うくせに、実際患者を前にして言う言葉がこれか。


 この人たちは。もう本当に、ダメなのだ。こちらを理解する気がないのだ。


 主任はそんな薬子の内心を知らず、聞こえるようにため息をついた。


「言っても忘れちゃうんでしょ? とりあえず日誌を今日からみっちり書いて。もちろん反省書は継続ね」


 謝るか。主任の言う通り、反省書を書いて出すか。


 その時一瞬だけ、薬子の中で反抗の種子が芽吹いた。ここで頭を垂れるほど、自分はバカではなかったはずだ。


 気にするなと今まで自分に言い聞かせてきた。だが、もうそれも限界だ。


「……体調の都合で……十月末で、退職させてください」


 居並ぶ同僚と上司を見渡す。最後の勇気を振り絞り、ようやく薬子はそう言った。


「わかりました」


 主任は声を少し低くしたが、引き止められもしなかった。その事実が、いっそう胸をえぐる。


 帰り道、とぼとぼ歩く薬子の胸中は複雑だった。胸に穴があいたような気とはこのことで、開放感がない。悔しさと悲しさが入り交じっている。


 大通りをひとつ外れた道は細く、その先は薬子が行ったことのない暗い路地につながっている。その影に引きずりこまれそうな感覚をおぼえ、そしてそうなってもいいかもとも感じる。


 反抗した高揚感はすでに消えていた。


 もっとうまく笑えれば良かったの?

 もっと気の利いたことができれば良かったの?

 私がもっと、今までの人生で努力していれば良かったの?


 そう答えのない問いを繰り返そうとして、薬子の目に再び涙が浮かんだ。何を言っても、言い訳にとられてしまうに違いない。ここでの自分の立場は、すでにそこまで堕ちているのだ。


 昔はどうだったろうか。懐かしい記憶を引き出そうとしてみても、最近のことばかり思い出されてうまくいかない。


 抜け出すことはできた。しかし、薬子は苛立っていた。何よりも、自分に。


 失敗ばかりして、それを挽回することもできないままだ。辞めると言ったのは自分だが、結局追い出されたような形になってしまった。


 実家には恥ずかしくて、こんなことは言えなかった。父は他界し、一人で暮らす母は今も薬子が元気で働いていると思っている。兄弟姉妹もいなかった。


 働いているうちに徐々に友達とも連絡をとらなくなって、今はもうほとんど会うこともない。ご時世的に宴会がなくなって、集まる理由もないのだ。もちろん恋人もいない。ペット禁止なので、動物すら身近にいない。


 本当に、薬子は一人ぼっちになってしまった。それが何よりも苦しい。


 一人になって、口をついて出る言葉は「死にたい」という愚痴ばかり。──それを実行するために何が必要か、すでに考え始めていた。


 電車か。それなら遺書さえ残さなければ、事故扱いになるかもしれない。

 見つからないように高いビルのベランダから飛び降りるのはどうだろう。

 練炭もいいらしいが、自宅で炊いて他の人に迷惑がかかるのは困る。

 誰でもいいから、むしゃくしゃした相手が自分を殺してくれないだろうか。


 そんな暗い想像をしている時だけ、少し気が楽だった。


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