9-3


 難しいことは分かっている。元々、神棚を壊すくらいに、信仰というものを信じない人だ。まして、母親が自分から避難させる目的で作った神棚に、拓馬さんがいい想いを抱くはずもなく、再び親子喧嘩に直結するかもしれない。しかし、菫はどんなに喜ぶだろう。菫が最も守りたかった拓馬さんが、自分を拝んでくれたら、菫はきっと幸せだろう。牡丹は難しい顔をして黙り込んだが、やがてうなずいた。


「分かりました。樹様のお願いとあらば、必ずそうさせてみせます」


「良かった。ありがとう、牡丹。じゃあ、俺はこれで」


俺はツバキ・ハイムに足早に向かった。菫に拓馬さんが帰ってくることを、いち早く伝えたかった。


「菫、菫! いるか?」


俺は玄関で靴を脱ぎながら、菫を呼んだ。


「お帰りなさい、主様。いるに決まっているでしょう。私はここの座敷童ですよ?」


 椿に比べたら、菫はおしとやかな幼女だった。思わず俺の方が興奮して、大声をあげていたことを恥じて、俺は軽く息を吐く。


「菫、拓馬さんがもうすぐ帰って来るぞ」


「え?」


 俺は菫に期待させ過ぎないように、部屋に来て拝んでくれることを頼んできたことは言わないことにしていた。大きな期待は、裏切られた時の傷も深いからだ。


「それは、本当ですか?」

「近々、大家さんと話し合いをしに、戻ってくるらしい」

「本当、なんですね?」


 菫は目頭を着物の裾で押さえて、声を殺して泣き始めた。いつもの落ち着き払った菫からは、考えられない反応だった。


「良かったな、菫」


 俺が泣いている菫の頭を撫でると、菫は深く何度もうなずいた。俺は菫の顔が正面になるくらいに屈んで、ゆっくりと言い聞かせた。


「だから、俺はここから出て行くことにした」

「じゃあ、もしも本当の主様が来なかったら、私はまた、一人になるんですね?」


 菫は涙を拭きながら、しゃくりの合間に言葉を紡いだ。


「いや。もしも拓馬さんが来なくても、すぐに新しい人が入るから心配するな」

「で、でも、私は今の主様がいいです」

「ありがとう、菫。でも、ごめんな」


俺はそう言って、引っ越しの準備を始めた。


 巡り歩き、その存在を確かなものにしていく。それは神様に限ったことではない。人間だって同じだ。出会いと別れを繰り返しながら、互いを思いやり、互いの最良の未来を願う。きっとそれは今までもこれからも、変わらない人々の営みだ。


「幸せにな、菫」

「主様も」


俺と菫も、互いの幸せを願って、別れた。





 新居に引っ越した俺は、さっそく神棚に鈴を置いて、水や御神酒、米などを供えて、柏手を打った。その柏手の音と共鳴するように、鈴がりぃぃん、と鳴った。そして神棚の前に、ふわりと幼女の姿が浮かんだ。黒髪を横に結い上げ、黒い瞳で俺を見つめ、臙脂色の着物を着ている。


「主様!」


椿は俺の首の手を回して、抱きついてきた。俺もそれを受け止めて、抱っこする形となった。


「椿、よかった」


 俺と椿は、笑顔で再会を果たした。そこに、大家さんからの電話が鳴った。拓馬さんを実家から追い出して、ツバキ・ハイム207号室に強制的に入居させたという報告だった。何年も音信不通だったため、拓馬さんが使っていた部屋は、すでに物置となっていたのだ。そこで、ツバキ・ハイムの管理人として、拓馬さんを入居させたのだと言う。しかも、拓馬さんも入居してからすっかりその部屋を気に入ったらしく、素直に管理人となったらしい。


「なあ、椿。俺には椿が見えるけど、拓馬さんは菫のことが見えるのかな?」

「見えますよ、きっと」

「そうだな」


 庄屋が見た座敷童は、去る間際に姿を見せていた。しかし、今は出会うべくして出会った主と座敷童だ。お互いに、姿を見ることができるなら、それが一番いい。菫が今度こそ、幸せになってくれれば、それでいい。


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