9-2

「安い……ですね」


「はい。この間取りでこのお値段は、ここしかないと思います。日当たりも良好ですし、お勧めですよ」


 断る理由が、ついに見つからなかった。


「よろしければ、これから内覧されますか?」


 にっこりと微笑む不動産屋のスタッフ。話が進むのが異様なまでに早い。俺が小さく返事をすると、そのまま会社名義の車で紹介された物件まで直行だ。この行動力は俺にも欲しいところだが、そう思いながらもまだ断る理由を考えているのだから、我ながら困ったものだ。しかし、物件に向かう途中、ハンドルを握る女性が意外なことを告白した。


「実は、これから向かう物件は、今の大家さんがお勧めしてくれた物件なんですよ」

「え? そうなんですか?」


 ということは、その部屋が安いのは、事故物件でもいわくつきでもないはずだ。


「こちらですね」


 物件に到着して思った。建物がでかい。そして明らかにツバキ・ハイムよりも高級感がある。確か書類では、ただのアパートではなく、アパート・マンションの部類だったはずだ。

 

 ここの家賃が、ツバキ・ハイムと同じとは、誰が見てもおかしいだろう。鍵を持った女性の後に続いて207号室に入る。同じ部屋番号というのは、運命なのか、それとも大家さんが作った必然なのか。


 鍵が外れる音がして、女性に促されて中に入る。キッチンと風呂場、トイレを通り過ぎて、フローリングの部屋に入る。間取りはツバキ・ハイムと変わらない。


 そして、その部屋には、アパートの部屋に似つかわしくない、立派な神棚があった。俺は、これは大家さんからのサプライズプレゼントであり、信頼の証だと分かった。不動産屋としては、いくら大家さんだからと言って、本来なら高く売れる部屋にこんな神棚を設置されては困るだろう。神棚などあれば、誰でもここが事故物件かいわくつき部屋だと思い込んで、入居を辞退するからだ。女性が淡々と、物件の立地情報や、部屋について説明している途中で、俺は大家さんへの感謝をかみしめながら、女性に向かって言った。


「ここにします」


 女性はバインダーから顔を上げて、不快そうな表情になった。説明も聞かず、難しい条件を出しておきながら、一件目の物件で判を押すこの男は馬鹿なのか、といった具合だ。


「他を見なくても、大丈夫ですか?」

「はい。ここに決めました」

「では、店舗に戻って、ご契約のお手続きに入らせて頂きますね」

「よろしくお願いします」


 俺と女性は車で店舗に戻り、女性が用意した書類に俺が判を押した。入居日の確認をして、鍵を渡される。すぐにでも入居ができるが、引っ越しの準備もあるし、菫とのこともある。二つの部屋を同時に契約しているから、家賃は二倍だが、我慢するしかない。


 俺は菫にどう説明するべきか考えながら、帰路についた。そこで、牡丹と会った。相変わらずのメイド姿だ。真冬なのに寒くないのだろうか。牡丹は俺を見つけると、駆け寄って来た。どうやら俺を捜していたらしい。


「樹様!」

「どうしたんだ?」


 牡丹がこんなに慌てているのは、珍しい。大家さんに何かあったのだろうか。


「御子息様が、近々お戻りになられるそうです」

「御子息様って、拓馬さんが?」

「はい!」

「どうして急に? 大家さんに何かあったのか?」


 大家さんと拓磨さんは、信仰を巡って対立し、何年も音信不通だったはずだ。しかし、さすがに自分の母親に何かあれば、こちらに戻って来てもおかしくない。しかし、俺の心配は取り越し苦労だったようだ。


「これを見て下さい」


 牡丹はスマホの写真を俺の目の前に突き付けてきた。そこに写っていたのは、間違いなく俺だった。ビブリオバトルの会場近くのホテルの周辺で、杏と買い物をした帰りの一幕が映し出されている。それは、俺が杏を一生懸命に拝んでいるところだった。一体こんな俺の恥ずかしい姿を、誰が撮ったのだ。牡丹も大家さんも、ずっとこっちにいたはずだ。となれば、この写真の出どころは一つしかない。


「まさか、拓馬さんがこれを?」

「そうなんです」


 俺が杏を拝んでいたのは、人ごみの中だ。だから、あの時あの場所に居合わせた人なら、誰にでもシャッターチャンスがあった。人混みの中で必死に謝る男、みたいなノリで俺を晒すこともできただろう。拓馬さんも、まさに俺を晒すつもりで、シャッターを切った。ところが、その写真を見て、何故か自分の母親を思い出したというのだ。こんなに大勢の人が行きかう中で、必死に何かに手を合わせる。バカっぽいことはバカっぽいが、それが拓馬さんには純粋に見えたという。そして、不意に自分の母親の年齢や、不動産のことなどが心配になり、久しぶりに連絡してきたのが、この写真付きのメールだったのだ。そして、話し合いをするために、拓馬さんの方から帰郷する旨を伝えて来たという。


「樹様、本当に、何とお礼を言ったらいいか」

「いや。俺は何もしてないよ。それで、一つお願いがあるんだ」

「はい。何なりと」

「拓馬さんが帰ってきたら、ツバキ・ハイムの207号室に一度でいいから、神棚にお参りして欲しいんだ」

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