九章 空室

9-1

 消えた椿を探し回っていた俺は、大家さんの前に土下座した。そして、不可解な頼みごとをしていた。


「お願いがあります」

「何かしら?」

「俺の部屋の、新しい入居者を募集して欲しいんです」


 現在のツバキ・ハイムは満室となっており、新しい入居者の募集はしていない。それは俺も知っていた。しかも、ツバキ・ハイム207号室には俺がいて、そこに菫もいる。菫は座敷童であるため、部屋の間取りから出ることはできない。

 

 だから、出て行くのは俺の方ということになる。しかし、本当に空室にしてしまえば、菫はその間、また一人になってしまう。そこで考えたのが、このお願いだ。俺はツバキ・ハイム207号室に住み続けながら、新しい入居者を待つ。そして新しい入居者と入れ替わりで、俺は別の物件に引っ越す。これしか考えつかなかった。幸い、大家さんは複数の不動産物件を所有している。加入条件は厳しくなるのだが、菫のためには俺がいなくなって、新しい主と一緒になってくれた方がいいと思う。


 もちろん、拓馬さんが改心し、戻って来てくれれば、それに越したことはないのだが、そこまでは期待できない。だから、せめて、菫がこれ以上寂しい想いや悲しみを抱かないように配慮するしかない。


「それで、厚かましいお願いなんですが、新しい俺の部屋にも、神棚を作って欲しいんです。お願いします」


 大家さんは何か気味の悪いものでも見るように、俺を見下ろしていた。当然の反応だ。神棚をここまで熱望する入居者は、どこを探しても俺くらいだろう。カルト宗教に入信したのかと疑われるほどの奇行に違いない。それを薄気味悪がるのは、現在の大人としては心配にもなるだろう。それでも俺は、畳に鼻を擦るほどに土下座を続けた。そこに、思わぬ加勢が入った。牡丹の声がにわかに聞こえた。


「奥様、私からもお願いします」


 そう言って、牡丹は土下座を続ける俺の横に正座した。


「牡丹ちゃんまで、座敷童を本当に見たの?」


 牡丹は首を振った。大家さんはますます訝し気な顔をして、牡丹を問い詰めた。


「だったら、どうして?」

「分かりません。ただ、こうして大の大人が一心にお願いしているのです。言動はおかしいかもしれませんが、その動機がまっとうなら、一度耳を傾けてあげてもいいかもしれないとは、思われませんか?」


 牡丹の言葉は、明らかに俺を変態扱いしているが、最後の部分は感動すら覚えた。


「私からも、お願いします」


 牡丹は俺の横で、土下座をした。大家さんは頬に手を当てて、ため息を吐いた。そして、小さく笑ってから、優しく声をかけた。


「二人とも、もうそんなことはやめてちょうだい」


 俺と牡丹が顔を上げると、大家さんは肩をすくめてみせた。


「二人がそう言うなら、私ももう一度信じてみようかしら」

「え、じゃあ……」

「ええ。貴方の言う通りにしてみるわ」


 俺はほっと胸を撫でおろし、牡丹も微笑んでいた。


「良かったですね、樹様」

「ありがとう、牡丹」




 後日、俺は不動産屋にいた。今は菫と一緒にツバキ・ハイム207号室に暮らしているが、そろそろ新しいアパートを探さなくてはならない。もちろん、このことは菫にもちゃんと説明してある。菫を一人にしない。その約束は守るつもりだ。


「現在のアパートに、何か問題でもありましたか?」


 不動産屋の女性が、分厚いファイルを広げながらそう質す。俺は慌てて、今のアパートの欠点を探すが、何も出てこない。我ながら椿のおかげで快適な一人暮らしを満喫していたからだ。それに、大家さんの家が近いから、牡丹も助けに入ってくれたし、問題など何もなかった。それでも俺は脳をフル回転させて、やっとそれらしい答えを返す。


「ちょっと狭かったから、ですかね」

「では、今の部屋より大きめの部屋をお探ししますね」

「あーっ。ちょっと待ってください。いや、えっと、今と同じくらいの部屋でお願いします」


 言ったばかりで、すぐに発言撤回だ。不動産屋の女性も「何言ってんだ、こいつ」的な言葉が顔に書いてある。俺は冷や汗をかきながら、「あの、その」と挙動不審を繰り返す。椿の存在をいつも感じていられるように、またその逆に、椿が俺の存在を常に感じていられるように、広い部屋は必要ではない。


「あ、家賃。家賃が上がるのが困るので」


 俺は完全に今、思いついたように言った。


「御家賃ですね。築年数が経っていれば、部屋を広くしても今と同じ御家賃で探せますよ」


 女性はあえてにっこりと微笑んで、ファイルを差し出す。俺は完全に、言葉に詰まってしまった。これが本来の俺である。自分の言葉で、自分の首を締めると言う情けなさ。さすがゴッドだ。今は菫という座敷童に守ってもらえているから、こんなことで済んでいる。俺は差し出されたファイルを覗く。そして間取りを見て、家賃と照らし合わせる。引っ越しにかかる費用を考えれば、敷金礼金なしということはありがたい。いくら築年数が経っているとはいえ、この広さでこの家賃は、本当に合っているのだろうか。もしかして、事故物件とか、いわくつきとか、あるのではないかと疑ってしまう。

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