8-5


「癪だけど、たーくんはあの子がいいのね?」


 拗ねた様な口調で、柳は体をくるりと回した。俺は柳の背中に、言った。


「ごめん、柳。俺は」


「ふざけないで!」


 柳は顔を歪めて叫んだ。


「ねえ、考えてないでしょ? もしもたーくんがここの祭神を連れ去ったら、誰がここの神様になるの? 誰が代わりに、あの古くて孤独な檻に入るの?」


一瞬、俺は理性を失いかけた。そんな檻など、壊してしまえと思ったのだ。この八巡神社の本殿を、燃やしてしまえばいいと、心の中で声がした。悪魔のささやきか。それとも魔がさしてとでも言うのか。俺の中に怒りと共にこんな破壊的な感情があったとは、自分でも驚きである。八巡神社は、神様の居場所でもあるはずなのに、俺はそれを一瞬でも忘れた。こんなのは、椿の主として失格だ。そして、唐突に思いつく。


椿の代わりになるのは、柳だと。


「神様って、信仰してくれる人がいる限り、消えないの。消えられないの。その人の

願いを、叶えるように、ずっとずっと努力しなくちゃいけないの。それがどんな願いでも、どんな人間からの願いでも、神様の存在理由はそこだけなのよ!」


「分かってる。辛くて、寂しいんだって思うよ」


「分かってない! 柳たちは、そうやって、何千年も存在してきたし、これからもそうやっていかなくちゃならないの!」


 柳の涙が、夕日に散って輝いた。柳の手の中のスマホが、軋みを上げている。俺は結局、何も分かっていなかったことを痛感する。俺が椿をここから解放する代わりに、柳がこの場所に、孤独な檻の中に、囚われ続けることになる。そして、人々の願いが善であろうと悪であろうと、その願いを叶え続ける。


 神様だって両親の呵責はあるのに、酷い話しだ。さらに言えば、その人間が悪人であろうと善人であろうと、自分を祀ってもらわねばならない。神様に選択権はない。いつか自分を人間たちが忘れ去るのではないか、という恐怖や不安を感じながら、人々の願いに応じ続けなければならない。そうしなければ、自分の存在意義を失うからだ。


 つまり神様の存在は、人間によって担保されるという、不安定で不確かなものだ。自力では存在できない、脆弱な存在に、俺たちは日々頼り、それなのに、その存在をすぐに無かったことにする。人間は良くも悪くも、忘れる生き物だ。受験前に合格祈願した生徒も、受験に合格すれば友達とパーティに興じる。すぐに神社にお礼参りなど、珍しいのではないか。それでも、戦々恐々としながら、神々は人の願いを叶え続ける。特に願われる機会の少ない神々などは、その存在があやふやになりやすいのではないか。目の前にいる柳だってそうだ。杏も、椿も、菫も、皆が苦しんできたのだ。そしてこれからも、苦しみ続けるのだ。


「それにね、柳は、ここに祀られたら、皆の記憶から消えるんだよ?」

「え?」

「だって、神様になるんだもん。人間だった柳はいなくならなくちゃいけない」

「嘘だろ?」

「本当だよ。だから、はい」


 柳が差し出したのは、本殿の鍵だった。


「どうして? 柳はそれでいいのか?」

「だって、これしか方法がないの。たーくんは、柳を選ばなかったから」

「すまない」

「だから、一つだけ、わがままきいて」


 柳は俺に本殿の鍵を押し付けると同時に、俺の唇に自分の唇も押し付けてきた。そしてそのまま、柳は俺の体に自分の身を預けた。俺も、柳の肩を抱いた。


「楽しかった。たーくんと会えて、梅野先輩にも会えて、皆でいろいろ話して、バカみたいなこともやって。充実した学生生活だった。でも、いつかこうなるって、分かっていた気もするの」

「柳……。俺も、柳に出会えて、嬉しかった。ありがとう」

「これを持って行って」


 柳が俺に差し出した紙袋には、子供用のわらぐつが入っていた。


「巡行神だから、お似合いでしょう?」


 俺は紙袋の中の小さな靴から視線を上げた。そこにはもう、柳の姿はなかった。柳は、柳として存在していた最後に、俺の願いを叶えてくれたのだ。その想いを無駄にしまいと、俺は鍵を握りしめたまま、本殿まで走った。鍵をガチャガチャ言わせながら鍵を開ける。靴を脱いで、ガラスケースの中の鈴を取り、代わりにわらぐつをケースに入れる。これで、ここの祭神は柳となった。柳の記憶が人々から消えるなら、この本殿のことも人々の記憶が書き換わるのだろう。御神体は鈴ではなく、わらぐつだったと。


「椿」


 そう言いながら、俺は御神体であった鈴を鳴らした。りぃぃぃん、りぃぃぃん、と澄んだ鈴の音が本殿に響き渡った。そして、西日の方に、ふわりと影が落ちた。


「主様っ!」


俺に抱きついてきたのは、黒髪をサイドに結った、黒い瞳の椿だった。その風貌の変わりように、俺は頓狂な声を上げていた。


「椿⁉」


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