7-4


「はい。では、他の二つの口頭伝承も、そういった人から聞き取れたんですね?」

「数年前の調査結果の一つだから、確かなことはデータを参照する必要があるが、確かそうだったと思う」


 やっぱり竹内先生は、研究の鬼だと、改めて思う。数年前にも、今と同じように多くの学生が参加し、多様なテーマに沿って、様々な調査結果を収集してきたはずだ。その中にあったたった二つの情報を、今でもほぼ完璧な形で記憶しているのだ。大学の教授ともなれば、これが普通なのか。それとも大学の教授の中でも、竹内先生が特殊なのか。いずれにせよ、同じ人間とは思えない。頭の中身を見てみたいというのは、このことだ。


 俺と竹内先生が話し込んでいると、学生たちが続々と帰って来た。各々の班が、今日の成果をノートにまとめている。最後の班の帰りを待って、報告会が開かれたが、今日は座敷童に関するデータはなかった。明日の予定を確認すると、竹内先生と近場に住んでいる学生たちは家に帰っていく。そして公民館には、俺と遠くから大学に通っている数人の学生が残った。もう、暗くなってきた。昼地同様に夕食を取り終えた頃には真っ暗だった。懐中電灯を持った俺が先導する形で、公衆浴場に行って帰ると、あっという間に寝るだけになった。公民館にテレビがなかったし、そもそも授業の一環であり、明日も精神的に厳しいことが待っているということで、学生たちの寝つきがいい。テレビや新聞はもちろんないし、ネットニュースを見る余裕もない学生たちは、いつも家に帰ると「浦島太郎現象」に陥ると言う。竹内先生が言う「浦島太郎現象」とは、家のテレビを付けた瞬間、浦島太郎のように、自分の知らない内に時間が流れていたことを認識し、ショックを受けることを指していた。実習前に起きていた凄惨な事件はすでに犯人が逮捕されていたり、自分がまったく知らないところで大事故がニュースになっていたりする。しかし、実習中は自分が時間に取り残されていることを認識できないため、「浦島太郎現象」が起きるのだ。大学の先生方は日本に限らず、世界中を駆け回っているのに、日本の昨今の問題についても詳しい。一体いつ、どうやって暮らしていればそうなるのか、もう一つ疑問が増えた形だ。


 皆が慣れない場所で、他人と共に、慣れないことをしてきたために爆睡している中、俺は眠れずにいた。宿泊組は女性ばかりだったので、俺は皆とは別の部屋で布団を敷いていた。枕が変わっても眠れないということはなかったが、この日に限って目が冴えてしまう。そこに、足音が聞こえてきた。誰かがトイレにでも起きたのだろうと、気にしないことにして、眠ろうとした。しかしその小さな足音は、トイレの前を通り過ぎた。そして徐々に俺の部屋に近付いてくる。今度は喉が渇いて台所に水を飲みに来たのだろうと考え、布団を被り直す。しかし、台所に行く前に、足音は止まった。そこはまさしく俺が眠ろうとしている部屋の前だった。障子に頭の影が映る。大学生にしては、背が小さすぎる。そして、俺の財布の鈴が高い音で鳴った。


 俺が生唾を呑み込んで、引き戸を見つめていると、音もなく戸が開いた。そこに立っていたのは、和服姿の女の子だった。切りそろえられた黒い髪と、大きな黒い瞳。それは以前、俺のことを尾行してきた幼女だった。足はやはり裸足である。そして、幼女の細くて白い首元には、赤い紐で通された古くて錆びついた鈴があった。その鈴は、八巡神社の御神体だった。俺の鈴と共鳴しているのか、再び鈴が鳴る。共振しているのか? 俺は起き上がろうとしたが、体が全く動かないし、声も出ない。これは椿の金縛り? パニック寸前の俺に、幼女は上から覆いかぶさって来た。


「私のこと、思い出してくれた?」


 幼女の冷たい手が、俺の頬を撫でる。


「私の名前、呼んで」


 俺は歯を食いしばって、やっとのことで首を小さく振ることができた。俺に馬乗りになった幼女は、悲しそうに眉をひそめる。


「どうして?」


 椿と、約束したんだ。もう、誰にも名前を与えないと。それが神様なら、絶対に名前を呼ぶことはできない。椿が、消えてしまうなんて、許せない。


「大丈夫。座敷童は消えたり、いなくなったりしないわ」


 俺の胸の内を読むように、幼女は優しく微笑んだ。


「ちょっとだけ、在り方が違うようになるだけよ」


 それは、甘い誘惑だった。椿はいなくなるのではなく、在り方が違う形に変化するだけ。そんな都合のいい話があってたまるか。これはきっと罠だ。しかし現在夜這いされているという貴重な体験いや、危険なところだ。何故なら、俺はこの幼女を知っているからだ。


「夢告までしてあげたのに、冷たいわ」


 そうか。あのアパートで見た夢は、この子が俺に自分の存在を思い出させるために見せたのか。椿がいるにもかかわらず、この子は俺に影響を及ぼしてきた。それほどまでに、椿が弱っていたのか。それに加えて、俺とこの子が切っても切れない存在だったことも、原因だろう。そうだ。この子は、俺が不幸体質になる前まで、ずっと俺と一緒だった。


「ほら。今度こそ、私が貴方を守ってあげるから。ね?」


 幼女のか細い指が、俺の唇を撫でる。何という官能的な場面だろう。そう思うのは、俺が変態だからか。こんな美幼女にいいように扱われているのだから、俺の面目もない。幼女の指先が、俺の半開きになった口の中に入ろうとしていた。理性が飛ぶから、それ以上はやめてくれ、と念じる。この状態だけなら、俺は立派な犯罪者だ。


「そんなに、あの子が大事なの?」


 一瞬、悔しそうな顔をした幼女は、俺の唇に、自分の唇を重ねてきた。そして、言葉を吸い出すように、スッと俺の中にあった空気を吸った。頭の中が真っ白になり、視界の焦点が合わなくなった。そう思った時には、もう遅かった。俺は幼女の名前を呼んでいた。


「す、み、れ」


そう口から出た瞬間に、俺の体の金縛りが解けた。菫は俺の頬に自分の頬を擦り付けた。


「やっと、呼んでくれたのね。嬉しい」


菫はそう笑顔で言って、空気に溶けるように消えた。俺は脱力していた。とうとう、名前を呼んでしまった。椿との約束を守ることができなかった自分が、情けない。後悔先に立たず。俺は片方の腕で目を覆い、もう片方の腕で畳を強く叩いた。


「椿、ごめん」


俺は一睡もできずに、朝を迎えた。一番先に起きてきた学生に嘘を言い、俺は実習を反故にした。そしてバッグをひったくるように持つと、アパートまで走った。元々このアルバイトだって、椿の存在をそのまま残すために始めたアルバイトだ。その椿がいなくなってしまっては、元も子もない。椿、椿、椿。何度も名前を呼んだ。けれど、そんなことで椿の存在を保つことはできるはずもない。待ってくれ。消えないでくれ。どんなに願っても、もう、彼女は消えゆく存在だ。俺のせいで。俺のために。




 アパートの鍵を開けるのももどかしい。それでも俺は、勢いよくドアを開けた。


「椿!」


その部屋には椿はいなかった。財布からもぎ取った鈴を手に、土足でアパートの部屋を歩き回る。しかし、やはりもうここには椿はいなかった。鈴も効果がない。俺は肩で息をしたまま、部屋の真ん中で、立ち尽くしていた。しかし、いても立ってもいられずに、俺は鈴を手にしたまま、外に駆け出していた。



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