6-5
その夜に、俺は夢を見た。
大勢の子供の声がして、泣いたり叫んだりしていて、まるで動物園状態だった。どこの幼稚園も、年少組はそんなものなのかもしれない。俺も、その中にいた。土の匂いがすると思ったら、砂場だった。今の公園の砂場は、野良犬や野良猫の糞尿にまみれて使えなくなったという話を聞く。ここは幼稚園によって管理され、守られた、衛生的な砂場なのだろうと、ぼんやりと思う。砂場で遊んでいる時の夢か。幼い頃は平和で良かったな、としみじみとしていたが、どうやら様子がおかしい。俺は砂場で、シャベルとプラスチック製のコップを使って、タワーを作っていたがそれが一気に崩れた。幼い俺は大泣きしている。自分に向かって砂の塔が崩れてきたのだから、髪の毛も服も砂まみれになり、その水分で泥だらけだった。俺はこの頃からすでに、不幸体質であったことを悔やんだ。誰もいないところに倒れれば良かったのに、あえて自分に向かって倒れてくるとは、さすがに俺だ。しかも、幼い俺はまだ自分の不幸体質を受け入れるどころか、気づいてもいなかったので、悲惨だ。園庭に、俺の鳴き声が響き渡る。しかし、誰も助けに来ない。ここでようやく俺は、変だと気付いた。ここまで派手に泣いているのに、先生たちは何をしているのだろう。辺りを見回すと、数人のエプロンを着た大人たちが目に入った。何故か、その大人たちは俺のことを無視して、他の子供と一緒に遊んでいる。そして、俺の体を誰かの陰が覆った。やっと誰かが来てくれたと思った瞬間、信じられないことが起こった。
『また泣いてるぜ、だっせ』
『もっと泣け、泣け』
『泣き虫野郎』
口汚く罵った影たちは、俺に向かって泥団子を投げつけ始めた。しかし、誰も助けに来てはくれなかった。先生たちからも見放され、苛められていたのだ。
『やめなさいよ!』
そこに、突如声がして、俺への攻撃が止んだ。逆光で顔が見えない。ただ、長い黒髪をたなびかせた、女の子だったということは分かった。女の子が振り向いて、声が降って来る。
『大丈夫?』
そして朝、俺は激しい頭痛と共に目覚めた。頭痛だけではない。動悸と汗も止まらない。一体あの夢は何だったのだろう。俺を助けてくれたのは、誰だったのだろう。俺は椿を起こさないようにベッドを抜け出して、コートを着て外に駆け出した。今日は休日だが、桜はいるだろうか。こんなことになるなら、シフトを聞いておけばよかった。直感で桜に聞けば、何か分かる気がしたのだが、後悔は先に立たない。仕方ない。いなかったら、明日にでも聞きに行けばいい。
八巡神社の清掃をしていたのは、桜ではなく見知らぬ女性だった。
「すみません、桜さんは?」
俺がそう声をかけると、女性は俺の剣幕に押される形で、すぐに境内の奥の方だと教えてくれた。俺も礼を言い、すぐに神社の境内に入った。桜は神社の社の拭き掃除をしていた。
「桜!」
「あれ? 貴方は御嬢様の……」
「桜、俺に何かお告げはないか? 何でもいい」
俺の真剣さに、桜も表情を引き締め、持っていた雑巾をバケツに入れた。手水所で手と口を清めた後、鰐口を鳴らし、参拝した。その瞬間。どこかで鈴の音がした気がした。桜がゆっくりと振り返る。俺は生唾を飲んでその言葉を待った。伏せられた桜の目は、俺を捉えている。ゆっくりと開かれた口から聞こえてきたのは、幼い声だった。
「私のことを忘れるなんて、ひどいよ」
その言葉と共に、桜の目から一筋の涙が頬を伝った。その声は確かに、夢の中で俺を庇ってくれた女の子のものだった。桜は目をしばたき、辺りを見回してから俺を見た。
「あの、大丈夫でしたか? 私、また変なこと言いましたか?」
「いや。ありがとう。じゃあ」
俺はポカンとする桜に背を向けて、急いでアパートに戻った。何故、俺はこんなに大切なことを忘れていたのだろう。いや、忘れることが出来たのだろう。あの子は、イマジナリーフレンドなんかじゃないし、俺の作り上げた幻想でもない。まだ幼かったころ、つまりまだ記憶が曖昧な頃、確かに俺はいつもあの子と一緒だった。そしてあの子は俺のことをずっと守っていてくれたのだ。ずっと、ずっと、あの子は俺のために尽くしてくれていた。でも、俺が物心ついた時にはもう、あの子は俺の傍にはいなかった。だから、なのか? だから俺はあの子のことを忘れたのか? じゃあ、どうして今になって思い出したのか。それは、あの子の面影が、昨日、俺を尾行してきた女の子の面影と重なっていたからに他ならない。俺を尾行してきたのは、あの子なのか。だが、俺と一緒にいるということは、あの子も大学生くらいの年齢のはずだ。何かの病気で身長が止まったのか。それとも、何か別の理由があるのか。それに、どうして着物姿だったのか。この辺りでもたまに和装の人を見かけるが、茶華道をやっていそうな人ぐらいだ。あの子は、本当に俺と同じ幼稚園に通っていた女の子なのか。それとも、よく似た雰囲気を持った別人なのか。
俺は自分の家のドアにもかかわらず、空き巣犯のようにそっと開けて中をうかがった。椿の気配はない。まだ寝ているのだろうか。物音で椿を起こさないように俺は靴を脱ぎ、部屋に入った。ベッドに椿の姿はなかった。昨日のように間取りを全て探してもいない。最終的に、神棚の前で鈴を鳴らして拝んだが、椿は出て来なかった。
ベッドが少し膨らんでいたので、そっと手を差し入れてみると、少し温もりがあった。まさかと思い、ベッドの横で鈴を鳴らす。すると、椿の姿がふわりと浮かんだ。苦悶の表情で、ベッドの中に横たわっていた。しかし、その姿は後ろのクローゼットが透けて見えるほど、曖昧になっていた。このままでは危ないと分かっていたが、俺に出来ることは何でもやったから、他に手の施しようがない。俺が椿にしてやれることは、早く俺の代わりの主と入れ替わることぐらいだ。
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