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「君は何も知らないんだな。森田柳は
「八巡? この町の名前と同じですね。と、言うか、神社の娘? ええっ⁈」
そうだ。この町の名前は「八巡市」。引越しをするときに、変わった名前の市だな、と思ったことを思い出す。しかしその神社の娘が柳? 柳からは何も聞いていなかった。まさに寝耳に水状態だ。しかしどうして柳は、そんな大事なことを黙っていたのだろう?
「当たり前だろう。八巡神社があって、この市があるんだ」
「はい?」
ダメだ。情報量が多すぎる。とりあえず、竹内先生が全部知っているだろうから、話を聞こう。うん、それがいい。
「昔は何もない土地だったんだ。いや、人は住んでいたから、廃れたムラといったところか。場所の名前もなかった。しかしそこに偉い神様が来たので、祀ったところムラは豊かになった。だからその神様のために神社を作って、神様の名前にあやかって地名をつけた。それが大まかなこの土地の由来だ」
「八巡って、神様の名前だったんですね。でも、大まかなってことは、諸説あるということですか?」
「ふむ。そういうことだ。語りの真偽は、分からない。私が今言ったのは、八巡神社の古文書にあったものだ。しかし人々の語りは様々だ。ただ、これまでの調査では、ここが神様に由来する土地であることは間違いないようだ」
「先生は、この土地の地名研究もなさっていたんですね」
意外だった。助教授たるもの、幅広く全国区の物を研究対象としているとばかり思っていた。地方の大学だから、社会貢献の意味もあるのだろうか。それに、意外なことがもう一つあった。俺の中の古文書のイメージは、博物館や資料館で厳重に保存されているものだった。しかし竹内先生の話し方を聞くと、学生を対象にする古文書の調査は、昔に栄えていたところから見せてもらうもの、ということらしい。学生が授業で使うのだから、破損の危険性もある。つまり、古文書と言ってもすべてが同価値ではなく、学芸員の資格がない学生でも扱うことのできる古文書は、どこかしこに存在しているということなのだ。
「まあね。後期には毎年集中講義として、この土地の古文書調査をしている。二年生からの取得になるが、一年生が参加しても構わない」
「はい。前向きに検討させていただきます。それで、柳……、森田さんが八巡神社の娘だというのは、どういうことですか? 名字は普通ですけど?」
マリア先輩も、竹内先生も、俺の顔を見てぽかんとする。今、俺は変なことを言っただろうか? こちらはまじめに質問しただけなのだが。
「君は柳君と付き合っているのか?」
「そ、そんなことはないです。たまたまサークルに誘われて、同じサークルに入っていて、目指しているのが民俗学コースというだけです」
柳はふわふわしていて、かわいらしい。胸も大きいし、みずみずしい唇をしている。言葉の選び方には、マリア先輩とは違った意味で難があるが、悪意はない。俺みたいな見た目も中身も平凡なのに、不幸体質という貧乏くじを引かなくても、柳には引く手あまただろう。
「しかし柳君は君に気があるようだぞ」
「それに、ジンジャーの名前とカミヌシの名前は、違っていてもおかしくないのです」
マリア先輩、ここで色々突っ込ませないで下さい。それは神社ではなく、生姜です。
「マリア。院生室に戻りなさい。レポート、来週こそは提出だぞ?」
「はい。もちろんです」
「じゃあ、イツキ、またヨロピクです」
「はい」
マリア先輩は駆け足で、去って行った。院生は自分の研究のみを行う、研究者の卵だ。マリア先輩は、日本で博士号まで取って、母国のロシアの大学で教授を目指すのだそうだ。日本の学者が、博士号を海外で取るのと同じらしい。つまり、海外でも通用するという証明になるのだ。しかしその道のりは、想像以上に厳しいという。
「それで、先生はどうしてそんな勘違いを?」
「勘違いなんかじゃないさ。まあ、百聞は一見に如かず。ほら」
竹内先生は、黒のブラインドを開ける。四階だけあって、見渡し良好だ。ちなみに俺の部屋はアパート二階。その上、近くにもアパートが建っているため、風景は楽しめない。竹内先生が示したところに、森が見えた。田舎だから森なんてどこにでもある。しかしここは田舎の中でも市なのだ。高い建物が駅ビルくらいしかないとしても、街は整備されている。そんな街中に、一か所だけこんもりとした杉林が見える。そしてその隙間に朱色の何かが見える。あれがすべて神社の敷地だとすれば、かなり大きい。
「もしかして、あれが八巡神社ですか?」
「そうだ。近いだろう?」
「はい、まあ」
「マリアに、君の携帯番号とメールアドレスを教えても構わないな?」
「はい」
どうやら給料を振り込む書類に書かなければならないスマホの番号と、メールアドレスを竹内先生経由でマリア先輩に伝えてくれるらしい。これで俺はマリア先輩から逃げられない。しかし先ほどのように、ちょっと日本語を教える程度では、そんなに高額な時給は望めないだろう。何か夜の居酒屋とかスーパーとか、別の仕事も掛け持ちしないと、今後の生活は苦しそうだ。
「マリアのチューターは、一回一時間計算で構わない。もちろん、一時間以上かかった場合は、その分の時間をちゃんと計上してくれ」
「え? じゃあ、さっきのも?」
「ああ。一時間だ」
「ちなみに、時給っていくらなんでしょうか?」
「学生の場合は一時間千円だ」
「千円」
喜んでいいのか、悲しむべきなのか、分からなかった。時給千円は、東京の最低賃金以下だ。しかしここでは時給八百円程度が、学生アルバイトの相場だった。バイト雑誌を見ると、深夜や早朝のバイト、もしくは塾講師や家庭教師は時給が良くて、千円以上のところもあった。つまり昼の空いた時間でちょっと手直しをするようなバイトで、時給千円は、ここでは異常なほど高い時給なのだ。住んで間もないから分からないが、時給と連動するように、物価も東京より安いのだろう。だから食費や光熱費の節約をすれば、このアルバイトだけでも十分なのかもしれない。ただ、贅沢はできない。
「分かりました」
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