3-2

「彼女はマリア。君たちとは同じ年だが、もう院生だ。母国で大学まで出ている。何、彼女は優秀だ。日本語がちょっと分からない部分があって、レポートに時々変な日本語を書くくらいだ。樹君はそれを直してくれればいい」

「そうですか」


 俺は密かに胸をなでおろした。


「イツキ、これから、ヨロピクです」

「マリア先輩、樹磨です。よろしくお願いします」


 竹内先生は頭を抱える。


「樹君、厳しめで頼む。マリアはアニメで日本語を勉強してきたくちだから、なかなか直らないんだ」

「ハイ、ヤーはオタクです」


 自分からオタクって堂々と言えるのが、ある意味凄い。一人称のЯだけ、何故直らないのか。それにしても、こんな美少女がコスプレしたら、日本の人ならオタクならずとも引き付けられそうだ。プロのコスプレイヤーとして、十分に食べていけるのではないか。


「イツキ、これ、頼もう、です」


 マリア先輩は、A4判の紙を差し出した。紙は真っ赤に見えるほど、赤ペンで訂正が入っていた。早速仕事だ。俺は竹内先生を見る。


「心配するな。給料ははずむから」


 竹内先生は笑いながらそう言った。マリア先輩のレポートの題名は「日本とロシアにおけるアニメ需要と経済」だった。題名にはマリア先輩の個人的な趣味が反映されていたが、アニメと経済がどう結びつくのかが分からなかった。さすがは修士論文の前段階だ。しかし経済なら民俗学ではないのでは? という疑問も浮かぶ。


「イツキは、アニメ好きか?」

「アニメはあんまり詳しくないです。小説の方が好きです」

「そうか。ヤーは日本のアニメ好き。ロシアでも人の気配ある」

「多分、人の気配ではなく、人気です」


 高度な日本語間違い、やめてくれ!


「そうそう、人気ある。でも、それは近頃のこと」

「近頃、より最近の方がいいですね」

「最近のこと。皆、家でテレビ見る時間増えた。経済的余裕あるからだと思う」

「それで、経済」

「そういうこと。特に、変態ものの人気ある」

「変態? ああ、変身もの?」

「そうそう、変身して、戦する」

「えっと、そこは、戦う、の方がいいです」


 これ、終わるのかな? 本当にちょっとだけなんだけど、妙な言い回しがいちいち混じっている。


「日本は、景気良い時も悪い時も、同じ変態もの流行る」

「変身、です」

「そう。でもロシアでは人形劇」

「ああ、チェブラーシカなら知ってます」

「ミトンも」

「ミトン?」

「ミトンが、少年の犬に変態する」


もうそろそろ、直してくれないかな?


「変身です。かわいらしいお話ですね」

「そう。平和的。そしてロシアでは、アニメは子供見る物。でも、日本のアニメのは、ロシアの大人も見る。アニメに、日本的なもの、感じてる」

「なるほど。確かに日本の絵巻物を考えれば、日本のアニメって昔からあるような物なんですね。そこがロシアと違っていて、大人もその日本的なアニメを見ていると。だから民俗学なんですね」

「そういうこと」


 日本語さえできていれば、文句なく頭のいい人だ。経済とアニメの結びつきや、アニメの歴史的な価値と踏まえて論文に仕上げるなんて、俺には思いもよらない。俺はマリア先輩のレポートの赤で示された部分の下に、正しい日本語を書いて渡した。


「おお、早い! スパシーバです、イツキ」

「どういたしまして」


 そんなマリア先輩と俺のやり取りを見ていた竹内先生は、満足げだった。分厚い本を読みながら、二人の生徒のやり取りを聞いているとは、恐ろしい人だと思う。帰ろうとした俺に、竹内先生は、一枚の紙を手渡す。


「アルバイトの給料の振込先を書いて、提出してくれ。早いほうがいい」

「分かりました。月曜にでも」

「うん。そうしてくれ。それから、森田柳と言ったか。あの女子学生」

「はい」

「彼女の家には、近々お邪魔することになっている。君は彼女の家を知っているか?」

「いえ」


 俺はいまいちピンとこなかった。何故大学の助教授が、柳の家に訪問しなければならないのか。柳は一学生に過ぎない。柳が何か問題を起こしたのだろうか。しかし柳は俺の見る限りでは、大学生活を謳歌しいている。俺が首をひねっていると、竹内先生は「はははっ」と笑った。

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