三章 アルバイト
3-1
授業が終わった俺は、柳から貰った紙を頼りにサークル棟に赴いた。部屋ごとに、サークルの名前が掲げられている。音読サークルの部屋は、一番奥まったところにあった。ドアをノックすると、柳が出てきた。お互いに顔を見合わせて、固まる。相好を崩したのは柳が先だった。ゆるふわ系の柳は、はにかんだ笑顔で言った。
「来てくれたんだ。嬉しい。中に入って」
中には、もう一人女性がいた。文庫本を片手に、スマホをいじっている。器用な人だ。
「失礼します」
「ああ、ちょっと待ってて」
「あれ? たーくん知らないの?」
ん? たーくん? 今、俺は「ゴッド」以外のあだ名で呼ばれた。しかしいきなりそんな呼ばれ方をしては、まるで柳の彼氏のようではないか。それとも、柳は誰にでも親し気にあだ名をつけて呼ぶのだろうか。
「
梅野先輩は髪を真ん中から分けて、額を出していた。ボーダーの春ニットが良く似合う、マイペースでさばさばしていそうな印象を持つ。こんな人が新入生歓迎コンパに出ていたら、覚えていそうなのだが、いなかった気がする。そんな俺の気持ちを察したかのように、柳は説明を加える。
「梅野先輩は、コンパとか合コンとか、興味ないの。お金の無駄だからって、いつも来ないのよ。ああ、それからたーくんも柳のことは自由に呼んでね」
「うん、ありがとう」
俺がそう言った瞬間、梅野先輩が大きく舌打ちした。俺に向かって舌打ちしたのかと思って、びくりとするが、そうではないらしい。
「あーっ、逃げられた!」
「どうしたんですか、先輩?」
柳は慣れているのか、それともただの怖いもの知らずなのか、不機嫌そうな梅野先輩に近寄って声をかける。梅野先輩はいらだった様子で、スマホをテーブルの上に投げ出し、椅子に背を預けた。
「逃げられた」
「またですか? じゃあ、今日もこれでお開きですか?」
「そうなるね。悪かったね、柳と新入り」
「樹拓磨です」
「ああ、拓磨ね。よろしく」
「よろしくお願いします。あの、何に逃げられたんですか?」
「今日発表予定の音読担当者」
音読サークルなのに、メインの人間が逃げるって、おかしいのでは。一体このサークルはどうなっているんだ。
「次は柳に担当してもらおうかな。いい?」
「柳ですか? 柳は構いませんけど。せっかくなので、たーくんにしてもらっては?」
「え、俺? 無理です。無理」
俺が全力で拒否するが、梅野先輩はまんざらでもない顔をしている。これはまずいパターンだ。どうにかして逃げたい。俺が人前に立つときは、それがどんな小さな場であれ、失敗して恥をかくことに決まっているのだ。
「じゃあ、拓磨。最初だから詩でもショートショートでもいいから、来週まで何か見繕って来て。私らはお前の音読を聞く。いいね?」
ああ、どうして初日からこんな目に。
「はい」
半ばすねたように俺が返事をすると、梅野先輩と柳と連絡先を交換させられた。これでもう俺の首には縄がかかっているのも当然だ。逃げられない。だって、相手はゼミの先輩でもあるわけだし。
「じゃあ、今日はここまで。帰ろ帰ろ」
梅野先輩に追い立てられるように、俺と柳は部屋を出て、サークル棟を後にした。その直後だった。
学内にあるコンビニの生協から出てきた人の中に、見知った顔があった。眼鏡を掛けた強気な顔。バレッタでまとめられた長髪。漂うクールな雰囲気。この大学で最年少の助教授にして民俗学のゼミを任される竹内(たけうち)百合(ゆり)花(か)先生だ。竹内先生は俺と柳を目にして、近づいてきた。俺は咄嗟に、お礼を言わなければならないと思った。あの新入生歓迎コンパで、本当に一年生がお勘定を払わずに済んだのは、先生二人が大きな額を支払ってくれたおかげだ。竹内先生は、まっすぐ俺と柳のところまでやってきた。こつこつというヒールの音と、ビニール袋の響かせながら。そして、俺と柳に向かって声をかけた。
「君たちは、確か私のゼミに入るんだよね?」
「はい」
「もうアルバイトは決まっているのか?」
話しが学業の話しから飛んだと思ったが、俺は首を振る。
「いえ。俺はまだです」
「柳は間に合っています」
俺は内心、柳がもうアルバイトをしていることに驚いていた。自分を自分の名前で呼ぶ彼女が、どんなアルバイトをしているのか気になった。竹内先生は、腕を組んで俺を見つめた。そしていくつかの質問をした。
「樹君だったか。君、第二外国語は何を取っている? 英語の方は日常会話くらいできるか?」
「第二外国語はロシア語です。英語は、普通だと思います」
「そうか。ちょうどよかった。今から時間はあるか?」
元々サークルのために空けてきた時間だ。
「俺はあります」
「柳は家の用事がありますので、ここで失礼します。じゃあね、たーくん」
柳は俺に軽く手を振って、去って行った。
「ついてきてくれ」
竹内先生と共に、エレベーターに乗る。厳しそうなイメージがあるためか、会話の糸口が見つからず、緊張していた。五階の竹内先生の研究室まで来ると、やっと竹内先生が口を開いた。
「実は、チューターを頼みたいんだ」
「え? 俺に、ですか?」
チューターと言えば、外国から来た留学生の勉強をサポートする仕事だ。無論、その留学生の母語が堪能な学生でなければ務まらない。しかも大学の授業をサポートするのだから、成績も優秀でなければない。俺には荷が重すぎる。そう思ったが、竹内先生はもう研究室のドアを開けている。そこにはツインテイルの金髪美少女がいた。しかも、ばっちり目が合ってしまった。もう逃げられない。
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