2-3

 インターホンを押して、牡丹が俺と共に帰宅したことを告げると、大家さんの弾んだ声がして、すぐに門の鍵が開き、玄関まで大家さんが迎えに来てくれた。車椅子の大家さんのためにバリアフリーのリホームがなされているとはいえ、移動で腕が疲れないのか心配になる。牡丹が大家さんと話し込んでいる。時々、大家さんが俺に視線を送ってくれる。やはり迷惑だっただろうか。辞去しようか迷っている俺に、大家さんは近づいてきてくれた。そして、感心したように言う。


「若いのに、偉いのねぇ。神棚にお供えなんて、今までの入居者では考えられなかったわ。中には気味が悪いからって、取り外しを要求した人もいたのに。牡丹ちゃんにはできるだけ協力してもらえるようにと言ってあるから、遠慮しないでね。牡丹ちゃん」

「はい」


大家さんと牡丹は阿吽の呼吸だ。大家さんが一言呼んだだけで、奥の障子戸が音もなく開く。そこには一升瓶を持った牡丹が座っていた。どう見ても高そうな日本酒だ。少なくても今日のコンパでは出てこなかった。大家さんが牡丹からそれを受け取り、俺に差し出す。


「これ、頂き物なんだけど、献酒として使って下さるかしら? 私も牡丹ちゃんも下戸だから、あっても宝の持ち腐れよ。料理酒は別のを使っているしね」

「でも、こんな高級品をいただくわけには……」


そう言いつつ、これで椿は喜ぶのだろうかという期待と不安があった。


「いいのよ。それから、今日の夕食を牡丹ちゃんと一緒に作ってみてはいかがかしら?」

「それは、作業の邪魔になりますから」

「私は構いません」


牡丹はきっぱりと言った。


「私は、奥様の専属メイドです。奥様のご要望なら、樹様に料理を教えることも、私の仕事の内です」

「しかし、俺だけ夕飯にお邪魔するのは……」


牡丹と大家さんが顔を見合わせる。


「他に誰かいるのですか?」


 牡丹が詰問する。契約上、俺以外があの部屋に住むことはできない。同棲ももってのほかだ。もしも契約違反が発覚すれば、俺はツバキ・ハイムから出ていかなければならない。それは困る。俺としたことが、口を滑らせてしまった。しかし椿は俺以外には見えない。これは意外にも強みだった。


「いえ。あの、神様より先に食べてはいけないと、聞いたことがあって」

 

 再び、大家さんと牡丹が顔を見合わせる。今度は二人で口元を覆って笑いだす。そして大家さんが優しく俺に言った。


「そうね。昔は家長の前に神様にお供えをして、皆で食事を囲んだのよ。私としたことが、恥ずかしいことを言いましたね。確かに、樹さんの言う通りだわ。じゃあ、こうするのはどうかしら? 今日は献酒と牡丹ちゃんの料理を持って行ってもらって、また次の機会に、レシピを受け取りに来るというのは。ご足労をかけて申し訳ないけれど、ね?」


 大家さんの優しくゆっくりとした声で念を押され、俺はそれを了承するしかなかった。


「申し訳ないのは、こちらの方です。こんなに良くしてもらって、本当に有難うございます」

「牡丹ちゃん、なるべく縁起物で」

「はい。かしこまりました」


牡丹は今まで作り置きしていた冷凍や冷蔵の料理を、小さ目なタッパーに移していく。ある料理はそのまま、またある料理は一つ手を加えて、丁寧に料理を分けながら入れる。レンコンと人参のきんぴら。豆や昆布の煮もの。大学芋。ほうれん草の胡麻和え。それらを保冷バッグに入れて、その上にさっき買ったばかりのたれ付きのポークステーキの生肉が二人分。


「こちらのお肉はもう味がついているので、フライパンで焼くだけです。タッパーから小皿に移せば、見栄えが良くなります」


 牡丹はそう説明しながら、パンパンに膨らんだ保冷バッグを俺に手渡した。


「ありがとうございます」


 受け取りながらそう言うと、牡丹は顔を赤らめて、そっと耳打ちした。


「お菓子も入れてあります」


 俺は驚いたが、こちらも声を潜めて礼を言った。すると牡丹は、何かを思い出したような顔を一瞬見せた。しかしそこは彼女らしく、すぐに表情を整えて、何事もなかったように、引き出しの中から鍵を取り出して俺に渡す。


「それから、こちらをお持ちください。新しい鍵です」

「もう変えてくれたんですか?」

「はい。古いほうは置いて行ってください」


 大家さん宅を後にした俺は、鼻歌交じりに帰宅した。今までの俺なら、牡丹が新しい鍵をなくして、帰宅できないということになっていただろう。しかし今回はそうならずに済んだ。帰るべき家に、ちゃんと帰ることができる。そして、食事もおいしそうな物ばかりで、俺のやることは肉をただ焼くだけだ。これなら料理をしたことがない俺でも簡単にできそうだ。それに、コンパでお金を使わずに済んだ。以前なら、不足金が発生して俺を含む新入生も、代金の一部を払うことになっていただろう。それもなかった。明らかに俺の運気が上向き始めている。これが椿の御利益だとしたら、素晴らしすぎる。


「たっだいま~」


 俺が意気揚々とアパートの自室に入ると、人の気配がしなかった。それは当たり前なのだが、椿の姿も見当たらない。


「椿?」


 俺がふと風呂の方に目をやると、白い着物に袖を通している椿の姿があった。


「きゃああああああっ! 変態!」

「ぐぶっ!」


 椿は俺に金縛りを行使したようだ。全身が縛られたように引きつり、固まる。突如、俺の全身を筋肉痛が襲い、その場に倒れる。この光景はもはやデジャヴだ。こんなことが日常化すれば、本当に俺の身が持たない。何とかしなければならない。椿に説教するのは酷だが、俺の事情も少しは理解してもらわなければ、俺の日常が地獄と化すだろう。俺がそう決心した数分後、何故か俺が椿から説教を受けていた。


「どうして主様は、私のお着換えをのぞきたがるんですか?」


 フローリングの上で、俺はコートを着たまま正座していた。椿は立ったまま、腕を組んでいる。どうしてこうなったのか。いや、その前に、何故主である俺が、椿に説教されることになったのか? 疑問は尽きない。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る