1-3

 しかしシャワーに水滴がついているだけで、使われているわけではなかった。それはそうだろう。出入りできないはずの一室に上がり込んで、勝手にシャワーを使われたら、それこそ恐怖でしかない。しかし牡丹が確認する風呂場は、確実に誰かが今まで使っていた形跡があった。牡丹はそのことを気にも留めず、シャワーの水圧や水道の蛇口を確認する。


「問題ないようですね」


 そう言って牡丹が立ち上がった瞬間、俺の目の前に突如現れたのは、着替え途中の幼女だった。


「うわっ、ごめんなさいっ‼」


 思わず走り出して部屋の外に出た俺は、ふと気が付く。俺は部屋番号のプレートを確認する。そっけない数字の羅列。「207」。そしてここは間違いなくツバキ・ハイムだ。つまりこの部屋は俺の部屋だ。俺がそう思い込んでいるのか。いや、ちゃんと牡丹が来てくれて、玄関ドアを直してくれた。そうならば、あの幼女は不法侵入者だ。しかしこの状況を誰が信じるのだろう? 大体、部屋は牡丹が来るまで密室状態だった。窓はすべて施錠され、ドアは壊れたまま動かなかった。一体あの幼女は、どこから俺の部屋に入ったんだ?


「どうしたんですか? 急に大声をあげて走り出すからびっくりしました」

「へ? だって牡丹の横で幼女が着替えを……」

「はい? 何をおっしゃっているのですか? 幼女とは何ですか?」

「だって、俺は見たんだよ。脱衣所で着替えをしている女の子を」


訝し気な牡丹は後ろを振り返る。しかしそこにはがらんとした、誰もいない部屋があるだけだ。物音ひとつしない。牡丹は首を振った。


「やはり、いないようです。しかし田舎とはいえ物騒です。空き巣かもしれません」

「そんな風には見えなかったけど? 大体、どこから侵入を?」

「鍵の施錠は怠らないで下さい。また、樹様が大学にいらっしゃる時間になりますが、業者を手配して、鍵を取り換えておきます。それで、防犯上の問題はないと思います」

「俺の話、聞いてる?」

「新しい鍵は、大家さんのところに取りにいらしてください。それでは」

「話を聞いて!」


 俺の叫びも虚しく、牡丹は工具箱を持って帰ってしまった。一人になって、ようやく落ち着く。牡丹の言う通りだ。何を俺は取り乱したのだろう。まさか引っ越したばかりの男の独り暮らしに、侵入しようなどと言う輩は空き巣くらいだろう。きっと、ドアを壊したのも、その空き巣の手荒な作業が原因だったに違いない。テレビでは、サムターン回しと言っていた。そうこうしているうちに、俺が帰宅し、牡丹までやってきたから、犯人は慌てて脱衣場の暗がりに隠れた。そして、幼女柄のバスタオルかタオルで自分の頭と顔を覆った。それを俺が見間違えたのだ。犯人は相当なロリコン野郎に違いない。そんな空き巣に謝って、牡丹を置いて逃げ出した俺は、最低だ。そして早くも空き巣に入られた俺は、やっぱりついていない。一体この不幸体質は、いつになったらなくなるのか。


 俺はため息をついて、自分でも見回りをした。もちろん、脱衣場と風呂場は念入りに見た。しかし当然のことながら、お礼がいの人間は誰もいなかった。窓の鍵はかかったままになっている。特に荒された箇所はない。果たして犯人はどこへ行ったのか。目的は何だったのか。そんなことを考えながら、部屋をぐるりと回っていたときだった。突如俺の左足を衝撃が襲った。何かに締め付けられている。視線を落とすと、そこには先ほどの幼女がいた。大きな青い瞳に長い金髪。和紙製のリボンで頭の側面に一束結っている。服はまるで何かの儀礼でも行うかのような白い和服だった。血の気が引いた。


主様あるじさま、責任取ってくださいね♡」

「ぎゃあああああああっ! しゃべったあああああっ⁉」


 情報の洪水に、俺は溺れかけていた。俺の常識は機能を失い、定規はへし折れた。この状態を処理できない。パニックになった俺は、幼女がつかまっている左足を力任せに揺すった。すると幼女は、小さな叫び声をあげて床に倒れた。その声に、俺は正気を取り戻す。相手はまだ子供ではないか。何をやっているのだ、俺。


「あ……、ごめん。大丈夫?」


不法侵入かもしれない。未成年者略取の罪を着せられるかもしれない。しかし大人として、子供に暴力を振るうなんて、最悪だ。俺はひざまづいて、和装の幼女を助け起こした。小さくだが、幼女はこくん、とうなずいた。どうやら怪我はしなかったようだ。幼女の目には、大粒の涙がたまっていた。まるで朝露のようなぷっくりとした涙だ。


「主様は、私のことが嫌いなの?」

「あるじ……、さま?」


幼女は大きな目から、涙をぽろぽろとこぼし始めた。


「そうです、主様です。主様は私のお着換えを見たにもかかわらず、私のことが嫌いなんですね? そうなんでしょう?」

「着替えって、まさか……」


あれは、見間違いなんかじゃなかった。空き巣なんて言うものでもなかった。


「さっき、脱衣場で着替えていたのは、本当に君なのか?」

「はい。そうですよ?」


 先ほどの涙は一種の脅しだったのか、晴れやかな笑顔で幼女はうなずいた。気が付けば二人で正座をして、ひざを突き合わせていた。独り暮らしの男子大学生の家の光景としては、いささか間違っているような気がする。


「何で、俺の家に? どこから入ったの?」

「主様、俺の家って。どこから入ったって。変なの! あそこに私がずっといたじゃないですか!」


 幼女は笑い転げるような勢いで、俺の斜め後ろ上を指さした。振り向けばそこには神棚がある。大家さんの家で聞いた言い伝えを思い出した。いや、座敷童は去ったはずだ。それに、和服以外は普通の子供だ。いや、普通ではないか。和服なのに、青い目と金髪というのは、いくら何でも不釣り合いだし、髪形も座敷童とはだいぶ違う。座敷童と聞いて思い浮かべるのは、黒髪ぱっつんで黒い瞳だ。しゃべり方も仕草も、特に古風と言うわけではない。


「か、かくれんぼ?」


あんな高いところに、この小さな女の子が登れるはずがない。もし登れたとしても、あんなに狭い神棚にどうやって隠れるというのか。それを承知の上での発言だった。幼女は腕を組んでぺったんこな胸を張った。


「まあっ。主様でも怒っちゃいますよ? 確かに私の家はそこですけど、これから同棲するにあたっては、この一室全てが二人の共有スペースに決まっているんです。かくれんぼなんて、私がするわけがないでしょう?」


 舌っ足らずな言葉で、何やら不穏な言葉を口にする。同棲? 共有スペース? つまりこの幼女は、俺と一緒に生活するつもりでいるのだ。しかも「私の家はあそこ」ということは、神棚が幼女の住まい、つまり幼女は神様的な存在だと主張しているのだ。そういえば、牡丹がすぐそばにいたのに、牡丹は幼女に気づかなかったようだった。部屋を確認しても、牡丹は何も言わなかった。「幼女とは何ですか?」と確認までしていた。つまり、信じたくはないがある可能性に気づいてしまった以上、問わねばなるまい。


「もしかして、他の人には見えないのか?」

「もちろんです! だって私は主様だけのものですから♪」


得意げな幼女を目の前にして、俺はがっくりと肩を落とした。これからの生活が、一気に不安になってきた。まさか俺にしか見えない謎の神様的幼女と、同棲する羽目になるとは。先が思いやられる。これも不幸体質の俺のなせる業か?


「と、言うことは、君は座敷童でいいんだよね?」


確認のために言ってみると、幼女は大きな瞳をぱちくりとまばたきした。


「知っていたんですね? てっきり、忘れられたと思っていたのに」


幼女は目に涙をたたえて、俺に飛びついてきた。


「うおっ!」

「主様あっ!」


 俺に抱き着いて、幼女は泣き始めた。座敷童なんて、このアパートに入らなければ俺は知らずに生きていただろう。確かに、オカルト的な話は巷にあふれているが、座敷童を本気で信じる人はどれだけいるのか。それに、入居して間もない部屋に、もしも幼い女の子がいたら、皆驚いて入居を断念するか、警察に届けるだろう。しかし俺は幸か不幸か、牡丹と一緒に部屋を確認したために、俺以外にはこの幼女が見えないことを知ってしまった。子猫のように俺にすがるように泣きつく幼女は、きっと今まで寂しかったに違いない。

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