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「今は奥様お一人です。旦那様は私が雇われた頃に、亡くなっていると伺っております。だから、きっと御寂しいのだと思います。奥様はきっとお客様に、御子息様を重ねていらっしゃるのだと思います」

「俺で良ければ、いつでもいいですよ」

「ありがとうございます。さあ、脱いで下さい」

「え? ここで?」

「はい。私がお手伝いさせていただきます。さあ」


 牡丹は俺のズボンに手をかける。何、この展開⁉ 牡丹は何のためらいもなく、俺のズボンと腰の間に両手を差し入れ、一気にズボンを下げた。


「私は、介護士の資格も持っておりますので、ご心配なさらずに」

「そういう問題ではないです!」


牡丹にパンツ一丁にされた俺は、牡丹から替えのズボンを取り上げて、大急ぎではく。ほっとしたのもつかの間。牡丹は俺の股間に手を伸ばし、ファスナーを閉めた。牡丹はドヤ顔であるが、俺は童貞を失った気分だった。


「ありがとうございます」

「いいえ」


牡丹はほころぶ蕾のような笑顔を見せて、客間へと案内した。そこにはもう大家さんが車椅子で待っていた。牡丹は楚々とした動きでお茶を入れる。ああ、本当に包丁を向けられた時とは別人だな。ああ、そういえば俺の部屋の神棚のことを聞いてみよう。大家さんなら何か知ってるはずだし。


「あの、俺の部屋に神棚があったんですけど、アパートの一室に神棚って普通なんですか?」


 一瞬、大家さんと牡丹が目配せしたのが分かった。俺は嫌な予感がした。俺の経験上、それは不幸の前触れでしかなかったからだ。もしかして、あの部屋は何か良くないモノが出るとか、過去に自殺者がいる事故物件だとか、そんなところだろうか。あり得る。俺ならあり得るから怖い。しかし、牡丹も大家さんも笑い始めた。大笑いせずに、口元を手で覆うところが、いかにも大家さんらしかった。


「普通なわけないじゃないですか」


牡丹が笑いをこらえながら言った。


「あら、牡丹ちゃん。笑いすぎは失礼よ」

「奥様も笑っていらっしゃるじゃないですか」

「ごめんなさい、樹さん。神棚は普通のアパートにはないのよ」


そうか。では、やはり、あの部屋はいわくつきの物件だったのか。さすが俺。入居早々、悪霊と同棲とは、昨今のホラー映画でも使えない題材だろう。


「あの神棚はね、あのアパートの座敷童の神棚なのよ」

「ざしきわらし?」


聞いたことがあるような、ないような。確か東北にいる妖怪の類ではなかったか。ほら、やっぱり当たらずとも遠からずだった。幽霊も妖怪も俺にしたら、一緒だ。


「奥様、今の都会の方は知らないのではありませんか?」

「あら、そうなの?」


急に俺に話が飛んできて、俺は虚を突かれた顔になる。それを見た牡丹は「やっぱり」と言って、肩を落とした。俺の目の前に、深い緑色をしたお茶が差し出される。当然のことながら、茶柱なんて浮いていない。しかも、安物しか飲んだことがない俺は、お茶の本来の香りと色の深みに、泣きたいくらい感動していた。


「座敷童は、ここに伝わる福の神です」


え? 今、俺に超関係ない単語が聞こえた。超縁遠い言葉だということも分かる。今、福の神って言ったよね? 座敷童って、福の神なの? 本当? 妖怪じゃなくて?


「この辺りには、こんな言い伝えが残っております」

牡丹が咳払いをして、語り始めた。


◆ ◆ ◆


 昔、たいそう裕福な庄屋があった。そこの主は毎日欠かさず神棚を拝み、大切にしていた。主は妻や子はもちろん、丁稚にさえ、神棚を大切にするように厳しく言っていた。ところがある日、流行り病で妻が急逝した。そこで主は、若い新しい妻を迎えた。この妻は、たいそうなやきもち焼きだった。主や家の者が、自分より神棚を大切にすることが許せなかった。だから、新しい妻は神棚を拝むことをしなかった。それどころか、言いつけられていた神棚の掃除や、毎日のお供え物までしなかった。この頃から、庄屋の商いはうまくいかなくなる。そんな折、主は家の廊下で、見たこともない幼児がうつむいて座っているのを見つける。声をかけようとしたところ、その幼児は跡形もなく消えてしまった。これは神のお告げに違いないと思った主が、くまなく神棚を見てみると、奥にしまっていた札は破れ、蜘蛛の巣がかかっているという、悲惨な状況だった。これを妻に問いただすと、嫉妬に狂った妻は神棚を壊して、家から出て行ってしまった。そこから店も家計も傾き、家の者は次々に病に伏したり怪我をしたりして、結局その家は途絶えてしまったという。


◆ ◆ ◆


 えっと、突っ込みどころが多すぎる。まあ、言い伝えだから仕方ないけど、主が神棚の異変に気付くの遅すぎる。座敷童って、幼児なの? いきなり現れて消えたら、普通お払いしない? しかも座敷童いたのに、前の奥さん死んでるし、そこがなければ新妻が来ることもなかったんじゃない? しかし、その突っ込みを言えるような雰囲気ではない。それはともかく、その庄屋の跡地に建てられたのが、あのツバキ・ハイム何だろうか。つまり、やはり縁起が悪い。でも、神棚を大事にすれば、その座敷童は帰ってくるのか? そうしたら俺は福の神と同棲することになる。これは不幸体質を脱却するチャンスではないか。


「大事にしてね。それから、何かあったら牡丹ちゃんが行きますから、よろしくね」


 そうか。大家さんは車椅子だもんね。確かあのアパートの階段は狭いし、バリアフリーなんて考えられていない。でも、そこって普通業者が来るはずでは?


「ご心配は無用です。簡単な家事はもちろん、電気や水回りの問題の初歩的な問題解決スキルは持っております」


 牡丹が誇らしげに胸を張った。しかし、まさかこの格好で来るのか? インターホンが鳴ったら、ドアの前にメイド、みたな。そんな萌え要素は特にいらないのだが。


「大丈夫ですよ。そんなに問題は起こりません。都会の人がやりがちなのは、冬に水道管を凍結してしまうことやゴミ出しのやり方くらいです」

 

 そう言われてみれば、ここのゴミ出しは分別が細かかった。ゴミ出しの表を入居時に頂いたのだが、八分類もあった。そこは気を付けなければと思っていたところだった。しかし水道が凍結するって、どういうことだろう。


「冬に帰省されているうちに、水道管が凍って破裂することがあります。水道の元栓を閉めて、部屋の水道を出しっぱなしにして、管の中の水を抜いたら、そうなる心配はありません。忘れたら、またききに来てください。困りごとがあったら、何でも」


牡丹がそう言い終えると、洗濯機の音が止んだ。性能がいいのか、音は微々たるものだったが、終了を知らせるアラーム音のようなものが鳴った。牡丹は「失礼します」と言って立ち上がり、音がしたほうに向かった。俺は高級そうな羊羹を、濃いお茶で流し込み、着替えるために立ち上がった。大家さんがしみじみと俺を見ていた。


「そのズボン、あなたにぴったりだったわね」

「はい。有難うございました」

「どんな些細なことでも、また来てくださる?」

「はい」


 牡丹が言っていたことを思い出す。こんなに広い家と庭を持っていながら、牡丹がいないときはたった一人で過ごすのだ。それは寂しいに決まっている。それでも、大家さんはにっこりとほほ笑んで、俺を見ていた。俺は今度こそ自分でズボンをはき替え、玄関に出た。大家さんと牡丹が見送ってくれた。


「苔のことは、本当にすみませんでした」

「まだ気にしていたの? いいのよ。気にしないで」

「すみません。では、失礼します」

「ええ。また今度ね」

「はい」


 名残惜しそうに見つめる大家さんを見ていると、俺のほうまで名残惜しくなってくる。牡丹は一礼して、俺を送り出してくれた。

大家さんの家から少し行くと、公園があり、その横を通って歩いていくと、ツバキ・ハイムがある。遠目から見ると、もはや「古いアパート」と言うよりも、「鄙びたアパート」と言うほうが適切に思えてくる。内面が完全にリホームされた物件には見えない。まあ、それもいい。今後大学に入って友人ができ、大学から徒歩圏内に住んでいると分かれば、友人たちのたまり場にされる可能性がある。この外観なら、その心配もないだろう。俺は静かなところで落ち着きたかった。だから、誰も来ないような田舎の大学を選んだ。ここまで幾多の試練を乗り越えてきた俺だからこそ、大学生の内は平穏で静かに暮らしたい。二階に上がり、部屋番号を確認して、鍵を回す。難なく鍵は開いたがドアが開かない。まさか、ドアが壊れている? 押してもダメなので、引いてみる。蝶番がやけに大きく嫌な音を立てた。そして、ドアが壊れた。まだ引越しをして間もない、四月。ゴールデンウィークまでは雪が降るというこの地で、まさか部屋に拒絶されるとは、思ってもみなかった。斜めになったドアが、「もう無理です」とでも言いたげに、俺の目の前に存在していた。俺は頭を抱えて、その場にしゃがみこんだ。これはさっそく、大家さんに電話をして、牡丹に来てもらうしかない。しかし、別れたばかりで電話をするのは気が引けた。こんな時に限って、防寒対策を怠っていた自分が恨めしい。近所に挨拶に行く程度だからと、ズボンにシャツ一枚だ。寒風にさらされ、くしゃみが出た。このままでは確実に風邪をひいてしまう。風邪薬なんて買い置きしていないし、近所の病院も分からない。仕方なく俺は大家さんの家に電話をかけて、牡丹を寄こしてもらうことにした。

牡丹はメイド服姿で走ってきた。息を切らしたメイドに見下げられる、俺。人通りの少ないところだから良かったものの、この姿を他人に見られるのは耐えられない。


「ああ。蝶番が緩んでいたのですね。これなら私でも直せます。ちょっと待っていてください」


 牡丹は持ってきた工具セットからドライバーを取り出し、別の箱から新しい蝶番も取り出す。そして慣れた手つきで、ドアの蝶番を新品の物と交換した。プロの大工さんみたいな手際の良さだった。思わず無駄のない動きに俺が見とれていると、牡丹は顔を赤らめた。


「そんなにじろじろ見ないで下さい。恥ずかしいです」

「えっ、いや、その手際の良さに見とれたというか、ごめん」

「いえ。謝らなくてもいいのですが」

「あ、うん。有難うございます」

「一応、中も確認させていただいてもいいですか? また不具合が起こると大変ですから」

「ああ、そうですね。お願いします」


俺はそう言ってから、自分の部屋にメイド姿の女の子が入るという事態に困惑した。


「あの、その服、恥ずかしくないんですか?」


牡丹は「何を言っているのか分からない」と言いだけに、首をかしげる。


「これが、作業着ですので」

「そうですか」


間取りを知っている牡丹は、次々にトイレや水道、電気やエアコンなどをつけたり消したりしながら、チェックしていた。そして最後に風呂の水道とシャワーを確認しようと、折り畳み式の風呂場のドアを開けた。その瞬間、俺の耳には確かにシャワーの音が聞こえていた。

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