一章 座敷童はお着換え中!

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 俺にしては珍しく、大学受験は第一志望の地方の大学に受かった。やはり推薦が使えたことや、地方の有名大学ではなく、毎年定数割れを起こしていた大学を選んだのが良かったのだろう。しかしそのことは、大学の経営が難しくなってきていることを示しており、いつ大学が潰れるか分からない状況ではあった。


 初めて、俺はアパートで独り暮らしを始めることとなった。引っ越し先は築五十年の超ボロアパート「ツバキ・ハイム」である。しかし管理人の女性がリフォームしてくれていたおかげで、新築と見紛うばかりの内観であった。外観は経年劣化が激しいが、これならば家賃が安くても快適に暮らせそうだった。不動産屋さんと外観を見た時は、また俺の不幸体質が事故物件に引き付けられたのだと思ったが、内観と家賃とでここに決めた。俺の部屋だけに何故か神棚があったが、それは気にしないことにした。むしろ、毎日拝めば俺の不幸体質が良くなるのではないかと、期待していた。


 フローリングの七畳のワンルーム。キッチンの向かいがバスルーム。バスルームの隣がトイレ。もちろんエアコンも完備。俺がここに三万で住めるのは、はっきり言って奇跡的な事だった。窓の外からは小さく大学やその近くの神社が見えた。もちろん、引っ越し作業中に家具が傷ついたり、荷物が予定より遅れて届いたりすることは、俺にとって想定内だった。荷物や家具を一応配置すると、駅で買って来た菓子折りを持って、大家さんになる管理人の女性宅に挨拶に向かった。


 大家さん宅は、門構えからして立派な豪邸だった。緊張しつつも門の前のインターホンを押す。するとインターホンから、老齢な女性の声が聞こえてきた。家だけではなく、声まで上品だった。


『はい。どちら様?』

「今日からツバキ・ハイム二〇七号室に入ることになりました、樹と申します。ご挨拶に伺いました」

『ああ、今鍵を開けますので、玄関からお入りください』


 上品な声が柔らかく言って、ブツリとインターホンが切られた。その直後に立派な門がガチャリと硬い音を立てて開錠された。分厚い門をくぐると、そこには立派な日本庭園が広がっていた。俺とは違って、幸福体質な人が住んでいそうな匂いがする。俺は周りの苔を踏まないように、平たい敷石の上を用心深く歩いた。しかしその敷石の間隔に慣れていなかった俺は、細やかに手入れされていると分かる苔の上に転んでしまった。やっべー! やっちまった! 俺が転んだところだけ、苔が剥がれて黒い土がむき出しになっている。


「ど、どうしよう……」


 俺はとりあえず、玄関の扉を開いた。怒られることは覚悟していたが、苔の価値なんて全く分からない。一体いくらの弁償額になるのか、気が重い。だって、超高そうなんだから。


「すみません、さっき、転んでしまって苔が……」

「あら、まあ。大変」


俺が頭を下げていきなり謝ると、先ほどの品の良い声がおっとりと返って来た。そうなんです。俺は大変な事をしてしまったんです。この苔は一体どれくらいで元の大きさまで成長するのか。それとも成長したものを買って来て配置するのか。そんなことも分からない俺が、美しい日本庭園の一角に、とんでもないことをしたんです。「恩を仇で返す」というのは、俺みたいな奴を言うのです。分かってます。怒って下さい。


「服が土で汚れているじゃない。ちょっと、待っていて下さる?」


「へ?」


 俺は思わず顔をあげて、初めて大家さんを見た。声に違わず上品な御婦人だった。足が悪いのか、車椅子に乗っている。白髪を紺色のシュシュで束ね、高級そうな空色のワンピースを着ていた。ご婦人が車椅子に手をかけて、向きを変えようとした時、誰かが駆けてくる足音が聞こえた。


「奥様、ふとどき者は私にお任せを!」


大家さんを守るように、一人の若い女性が俺の前に立ちふさがった。フィクションの中でしか見たことがないメイド姿であった。しかし、「萌え」要素など感じている余裕はない。何故なら彼女は包丁を俺に向けていたからだ。こ、殺される! 誰か助けて!


「あら、まあ。違うのよ、牡丹ぼたんちゃん」


この状況でも、大家さんはおっとりとしていた。牡丹と呼ばれたメイドは俺とその後ろの苔を見比べた。


「しかし、奥様、こやつは奥様の大切になさっている苔を盗んだのでは?」

「違うのよ。ただ転んでしまったみたいなの。ねえ?」


 いきなり俺に話しが回って来てたじろぐが、ここで弁明しなければ、窃盗犯として殺されるかもしれない。


「そ、そうです。転んでしまって、苔を傷つけてしまい、申し訳ありません。今日は、入居のご挨拶に来ました。本当です!」


俺は持って来ていた菓子箱を差し出す。


「つまらない物ですが、どうぞ!」


 ベタな人形焼きと、これもまたベタなバナナ味のお菓子だ。まさかこの菓子が、俺の命を左右するアイテムと化そうとは。


「まあ。ご丁寧に。牡丹ちゃん、受け取って差し上げて」


大家さんに促されなくても、牡丹は俺の手土産を受け取っていただろう。何故なら牡丹は、バナナ味の菓子の大ファンだったからだ。包丁を握ったままではあるが、牡丹は人形焼きの箱には目もくれず、「奥様、〝バナナっ子〟ですよ!」と身を捩った。そして包丁を箱の上に置き、受け取った。


「そうね。せっかくだからお茶会にしましょう」


牡丹の浮かれぶりに、大家さんも目を細める。喜んでくれて何よりだ。と、言うか助かった。俺の場合、本当に命がいくつあっても足りない。


「いいんですか⁉」

「ええ。えっと、ツバキ・ハイムの二〇七号室だから、樹拓磨さんよね?」

「は、はい」

「牡丹ちゃん、樹さんのズボンを洗っている間に、三人でお茶にしましょう」


大家さんはいくつも物件を所有していると、不動産屋から耳にしていたが、入居者の名前をちゃんと憶えている辺りが、とてもしっかりしているな、と感じる。


「牡丹ちゃん。その前にしなければならないことがあるわね?」


箱に包丁を重ねて、去ろうとしていたところを、大家さんが止めた。そのおっとりとした優しい声音で、叱責しているのが分かる。優しさの中に棘のようなものが含まれていたのだ。牡丹もそれを察して顔を青くする。そして牡丹は箱と包丁を玄関の隅に置いて、俺に向かって土下座する。


「申し訳ございませんでした。無礼をお許しください、お客様」


三つ指を突いたまま、上目づかいで顔をあげた牡丹は、包丁を突きだすようには見えないしおらしさがあった。メイド服の女性にこんなことを言われると、何だか、背筋がぞわぞわする。


「あの、大げさです。そこまでしなくても……」

「いいえ」


俺の声を、大家さんがぴしゃりと止める。


「人に失礼をしたら謝る。これは人の基本です」


厳しい表情の大家さんが、牡丹を見て強い口調で言った。そして次には、優しい声音で俺に笑顔を見せる。


「そういうわけで、ごめんなさいね。許していただけるかしら?」

「もちろんですよ」


 俺はあたふたし、広い玄関からこれまた広い和室に通された。案内してくれたのはすっかりおとなしくなった牡丹だ。メイド服姿と和室はちょっと違和感があった。


「こちらが、かえのズボンになります」


 牡丹が差し出したのは、ちょうど俺がはいているような若い男性向けのズボンだった。大家さんには家族がいるのだろうか。そんな俺の考えを察したように、牡丹は言った。


「ちょうどお客様と同じくらいの御子息様が、一人いらっしゃいます。ただ、東京に出てから、連絡はありません。差し出がましいようですが、奥様の話し相手になっていただけないでしょうか?」


 息子さんということは、旦那さんがいるはずだ。しかし結婚指輪を、大家さんはしていなかったような気がする。


「あの、失礼かもしれないんですけど、他にご家族は?」

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