プロローグ 下

「駄目、だったかな?」


 原口杏の目が潤んでいた。まさか、俺が不幸以外で女子を泣かせる日が来るとは、思ってもみなかった。原口杏は、俯いて自嘲気味に笑った。


「そっか。駄目か。あたしは、結構自信あったんだけど、思い上がりだったかなぁ」


 原口杏は、自分を納得させるように、数回頷いてぽろぽろと涙を流し始めた。俺の思考は、固まった。俺が泣かせた? 俺がふったから? 嘘だ。こんな状況は俺の人生において、生まれるわけがない。嘘なのだ。そうとしか思えない。でも、もし本当だったら?


「あの、さ」


 俺は思わず確認作業に入る。


「俺、超不幸体質で、ゴッドって呼ばれてる樹拓磨いつきたくまだけど、人違いじゃない?」


 自分で自分をディするって、こんなに悲しいものなのか。涙が出そうだ。


「何言ってるの? クラスメイトなんだから、人違いするわけないじゃない」

「ずっと、って、いつから?」

「入学してすぐから」


どうも、雲行きが怪しい。


「何で、俺なの?」

「それは言うと長くなるし、恥ずかしいから、コレを……」


原口杏は、再び俺に手紙を差し出す。人違いや勘違いではないらしい。そうなれば、やはり原口杏は、俺のことが好きで、ちゃんとその理由もあるということなのだ。ごめんなさい、原口さん! いや、ふるわけじゃなくて、疑ってごめんなさい。俺は死ぬかもしれない。幸福が俺に訪れたことがないから、どう言ったらいいのかもわからないけど、死ぬほど嬉しいです。俺は胸の高鳴りを抑えながら、原口さんから手紙を受け取った。


「その、俺で、本当にいいの?」


まだ信じきれない俺を、許して下さい。


「え? 付き合ってくれるの?」


濡れた目を見開いて、原口杏はそう言った。


「俺で、良かったら……」

「ありがとう。じゃあ、これから二人の間では名前で呼ぼうよ」

「うん、分かった」

「じゃあね、拓磨!」


 俺の横を、爽やかな空気と飛び切りの笑顔が、通り抜けて行った。少し照れたような杏の姿は初々しく、初めて見せるものだった。俺はすんなりと恋に落ちていた。不幸体質よ、さらば。


「うおおおおおおおおおおおおおおっ!」


 人生初の幸福に、言葉にならない気持ちが湧きあがり、俺は恥も外聞もなしに、雄叫びをあげていた。もはや、漫画の主人公なみの雄叫びであった。


 この日、帰宅した俺は自室で杏からの手紙を読んだ。内容を一言で言えば、「母性本能がくすぐられたから」というものだった。つまり、俺の不幸体質が初めて功を奏したのだ。サンキュウ、神様。何をやっても失敗する俺に、母性本能を抱く女性がいるとは、世の中も捨てたものではない。そうか、母性か。憐みが母性と言うものを呼び起こすのか。不覚であった。よもや俺のような男にも、女性に需要があろうとは。視点を変えればそうだったのか。さすがは俺の女。俺の彼女。


「むふっ。ふはははははははっ!」


 俺は手紙を何度も読み返し、一人で笑っていた。家族の帰宅前だったため、俺の奇行を知る者は誰もいなかった。これで不幸だらけの人生とはおさらばだ。そう思ったのが、いけなかった。


 翌日から俺と杏は付き合うこととなったが、手をつなぐことさえできずにいた。何故なら俺が「病気のデパート」と化したからだ。教室で朝から寒気がすると思ったら、熱があり、そのまま早退。挙句の果てに熱が下がらず、病院で診察を受けると原因不明のまま入院。下痢と吐き気で食欲がなくなり、夜も眠ることが出来ずに、俺の体は痩せ細っていった。そして、こんな時に限って盲腸の手術や大腸検査が入る。唯一の楽しみは杏が見舞ってくれることだった。教室で杏と一緒に昼ご飯を食べるという、俺の野望は叶わないまま、月日だけが流れた。運が悪いことに、俺たちは高校三年生。進路を決めなければならず、お互いに時間もない状態となった。それでも杏は、授業のノートの写しや学校からの配布物を俺に届けてくれた。そして俺はふと、気が付いた。今まで俺は様々な不幸に見舞われてきた。しかも、周りを巻き込むという最悪なパターンで。しかし俺と付き合ってから杏は、何の不幸も経験していないというのだ。良かった、と思う。その一方で、今までと杏と付き合ってからと、何が違うのかと考えてしまった。彼女が無事であることは喜ぶべきことだが、杏は何か隠しているのではないか、という邪推も働いた。


 今日も杏が俺の病室のドアをノックする。相変わらず、かわいらしい声だ。


「拓磨、起きてる?」


制服が、いつの間にか冬服に変わっていた。そうか、もうそんな時期なのか。バッグから杏が教科別のノートを取り出す。俺もいつものように、引き出しの中からノートを取り出す。


「あ、今日、渡す物があったんだ」


そういって、杏は俺に一枚のプリントを渡す。それは、進路志望届だった。決して、「死亡届け」ではない。今の状況、それは冗談ではない。


「俺、進路大丈夫かな?」


青白く痩せた腕に巻かれたリストバンドが、ゆるくなってきた。入院患者の誤認を防ぐためのリストバンドだった。杏が、息をのむのが分かった。


「拓磨。進路、決まってるの?」

「地方の国公立の大学にしたいと思ってる。できれば、推薦も使いたい。ほら、俺の場合、チャンスは多く持った方がいいから」


冗談めかして俺が笑うと、杏はじっと俺のことを見つめてきた。そして、俯いたまま洟をすすった。そして、意を決したかのように、顔をあげた杏は俺を突き放すように言った。


「別れよう」


え? 今なんて言ったの? 聞こえない、聞こえない、聞こえない! だって、まだ恋人らしいこと、何にもしてないし、付き合った日数ゼロという結末はあり得ないじゃないか。いくら俺が不幸体質だからと言って、こんな不条理があっていいわけがない。それとも、神様ってそんなに悪趣味だったのか。人間に希望を持たせ、夢を与え、それを易々と奪っていくのが神様っていうものの趣味なのか。


「だって、私が告白してから、拓磨の体の調子が悪くなったじゃない? これって、私が災厄神だからじゃないかって……」


 いや、確かに神様の悪口心の中で言いましたけど、自分のことを災厄神だなんて言って欲しくないな。でも、そう思わせてる張本人が俺自身だからな。


「いや、杏が災厄神なわけないよ。だって、こうして勉強をいつも教えてくれてるし、学校のことも教えてくれてるし。俺は杏がいてくれて、凄く助かってるよ」


俺は本気で本当のことを言った。それなのに杏は首を振る。


「あたしは、都内の大学に行くの。だから、ちょうどいい機会だと思って」


何故だ。何故、俺はいつもこうなんだ? 好かれたい人はこれまでにも何人もいた。でも、それらの人達は皆去って行った。


「ごめん。もうこれ以上、拓磨が苦しむところは見てられない。さようなら」


そう言うと、杏は取り出したばかりのノートを乱暴にバッグにしまい、猛ダッシュで病室から出て行った。俺の手には進路志望届だけが残された。


「まじか……」


杏が病院に来なくなった日から、俺の体調は回復した。退院も決まり、すぐに教室に戻ることができた。杏は俺を避けるようになった。そして杏という人気者と付き合ったことにより、俺はクラス全員を敵に回すことになった。俺は「ゴッド」であるから、直接的な嫌がらせとか、あからさまな嫉妬とかは受けなかったが、教室の空気が違った。俺が来ると、重い空気になった。俺はこの時ほど、「空気が読める」という自分を呪ったことはない。


 俺は意気消沈していた。元気になっても杏がいない学校生活なんて、面白くも楽しくもない。ただ、不幸が連続する日常に逆戻りしただけだ。


 そして、受験をして、卒業式を迎え、俺の高校生活は「青春」の二文字がないまま幕を閉じた。杏とは、もう会うことはないだろう。


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