第八〇編 最初の笑顔

 美しい少女が、静かに自分の携帯電話を置いた。四方、壁面へきめんのほぼすべてが本の背表紙で埋め尽くされた書斎しょさいの中央、造りの良いガラステーブル前にえられたソファへ腰掛ける彼女――未来みくは、無言のまま目の前の電子端末を見つめる。


「――……」


 やがて、いつものように本を読み始めた彼女だったが、どこか集中しきれない。細くしなやかな脚を組んだり、ソファの肘掛けに腕をのせてみたり、自分でれた安物のインスタントコーヒーを飲んでみたりするものの、大した効果は得られなかった。

 そして少女はもう一度、テーブル上の携帯電話へと意識を向ける。


 未来は日常生活において携帯電話をほとんど使わない。恋人はおろか、友人のひとりも作ろうとしない彼女にとっては無用の長物もいいところだ。連絡を取り合うような相手と言えば妹か祖母くらいのものであり、それすらも従者を介して行う場合が大半をめる。必然、親から買い与えられた最新型のスマートフォンの活躍機会は激減し、携帯電話なのに携帯していないことも珍しくなかった。

 妹との直通連絡用にインストールしたメッセージアプリも、トーク履歴は妹だけ。アカウントに登録している相手もやはり家の関係者だけ。

 だけ、


 ――私の番号を入れておいたから、このメッセージアカウントとあわせて登録しておきなさい――


 愚者の少年へ送ったメッセージを思い返す。彼が失くしてしまった携帯電話に勝手に登録しておいた、少女じぶんの電話番号のことも。

 なにか意味があっての行動ではない。彼と連絡先を交換する必要性などなかった。むしろ他人ひととの接触を嫌う未来にとって、自分の連絡先をことは不利益マイナスにしかなるまい。

 だからあの行動は少女にとって、完全な特例イレギュラーだったと言えよう。


『いらっしゃいませ。あ、悠真ゆうまなら今日は来てませんよ。なんか風邪引いたとかで休むって連絡が入ったらしくて』


 それは今朝、気まぐれに訪れた〝甘色あまいろ〟で軽薄そうな青年店員から聞いた話だった。

 未来は別に、悠真の欠勤連絡になど興味もなかった。ただ、特に理由はないが一二月二五日クリスマスで混雑する喫茶店まで連日出向き、特に聞いてもいない情報を聞かされただけ。そして特になにを考えたわけでもないが喫茶店に入ることをめ、代わりに本郷ほんごうに命じて昨日の川原へと向かっただけ。

 川原そこに残されていると推理した彼の携帯電話を回収し、届けたことも単なる気まぐれに過ぎないのだ。


「お嬢様、宜しいでしょうか?」

「――ええ、入りなさい」


 本の内容が脳を素通りしていくなか、三回鳴ったノックの音に未来が返事をすると、すぐに長身の従者・本郷琥珀こはくが書斎に入ってきた。


「失礼致します。実はお嬢様にお渡ししたいものがございまして」

「――なにかしら」

「ええ、実は――」


 ちょうどその時、なにかを言いかけた本郷の声に重なる形で未来の携帯電話が振動した。即座に発言を控える優秀な従者に身振りひとつで断りを入れ、少女は端末の画面を点灯させる。


「――これは……」


 メッセージアプリからの受信通知。差出人は例の少年。ここまではおおむね予想通りだったが……どういうわけか、届いたのは文章メッセージではなく一枚の画像だった。無表情ながらにいぶかしみつつ、未来は通知アイコンをタップして内容を確認した。


「…………」


 それは、覚えのある三つの名前が刻まれた謎のマグカップを手に持ち、三人で自撮りをしている〝甘色あまいろ〟アルバイトたちの写真。撮影者である悠真がやや前面に、その後方には彼の部屋に並んで座る久世くせ真太郎しんたろう桐山きりやま桃華ももかが笑顔で写っている。


「…………」


 思うことはいくつかあった。どうして悠真の部屋に彼らがいるのか、どうして半日前よりも若干部屋が片付いているのか、どうしてこんな写真を送りつけてきたのか。しかし、諸々のすべてを差し置いてでもまずは問いたい。


 その奇天烈きてれつなマグカップはいったいなんなのだ、と。


「お嬢様、どうかなさいましたか?」

「…………。……本郷、これを見てどう思うかしら」

「はい? おや、小野おの様たちの写真ですか。それにこのマグカップは、昨日桐山様が久世様に贈られたものですね」

「昨日? ……つまり、小野くんが真冬の川に飛び込んでまで守り抜いたあのプレゼントは」

「はい、このマグカップでございます」

「骨折り損のくたびれ儲けどころではないのだけれど」


 こんなもののために悠真は死にかけたのかと思うと、さしもの無関心お嬢様とて憐憫れんびんを覚える。


「……というよりも本郷。貴女、昨日あのプレゼントを修復する時に中身を見たはずじゃないの?」

「はい、こちらの『久 世 真 太 郎』と刻まれたマグカップを拝見しました」

「これを見て、なにか思うことはなかったのかしら」

「はい、現役高校生のあいだではこのようなデザインのマグカップが流行はやっているのかと衝撃を受けました」

「流行っていないわ」

「えっ? しかし、現に小野様たちはお揃いで持っておられるようですし……」

「断じて流行っていないわ」

「そして先ほど申し上げようとした内容と繋がるのですが、どうやら桐山様があのオリジナルマグカップを作られたのは七海グループの末端企業だったらしいのです。そこで私も是非お嬢様に流行の最先端を味わって頂こうと思い、こちらをご用意致しました!」


『七 海 未 来』


「要らないわ」

「そんなッ!?」


 謎マグカップシリーズを本気で流行中だと信じているらしい本郷がキラキラした表情で差し出してきたソレを、未来はバッサリと切り捨てた。ショックを受けた様子の従者は「せっかくお嬢様とお揃いにしたのに……」と嘆きながら、ちゃっかり一緒に発注していた『本 郷 琥 珀』のマグカップを悲しそうに撫でる。こんなものが流行らないことくらい、流行にうとい未来でも分かるのだが……相変わらず、変なところで抜けた従者だ。

 未来はため息を落としつつ、改めて画面上の写真を見る。


「(文字通り命をけた貴方こそ、誰よりも衝撃ショックを受けそうなものだけれど……)」


 しかし、前面そこに写る少年は笑顔だった。

 悠真は未来の前であまり笑ってみせることがない。ともに談笑するような関係ではないし、苦しそうな表情を見る機会のほうがずっと多いだろう。

 だから、これが初めてだ。苦笑でもなければ皮肉でもない、を浮かべた小野悠真を見るのは。


「(……貴方は、そんなふうに笑うのね)」


 気持ちは理解出来ない。

 在り方は肯定出来ない。

 ただ、その笑顔は少しだけ――


「お嬢様?」

「――なんでもないわ」



 これが、彼らの物語における最初のクリスマス。

 真太郎ヒーロー桃華ヒロインの関係性が一歩前進し、孤独の少女に僅かな変化が訪れ、愚者の少年が少しだけ報われた日。

 この聖夜はきっかけに過ぎない。

 恋愛劇は、ここから加速していく。

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