第七三編 聖夜に笑顔を

「受け取って欲しいものがあります!」


 紅潮した顔で桃華ももか真太郎しんたろうにそう告げた頃、そのほぼ同時刻。

 場面は変わり――赤穂院あこういんホテル最上階の貴賓きひん室にて。


「…………」


 泥と傷にまみれたその少年は、ぎ目のない窓ガラスから一望出来る夜の街並みを静かに見下ろしていた。

 今宵はクリスマス・イヴ。無数の光でいろどられた聖夜は、こうして高いところから眺めてみても輝かしく映る。この建物ビルの足下から遠くの空へ消えていくのは、高速道路を駆け抜ける自動車の灯火ライトだろうか。暗い部屋からぼんやり見つめていると、自分一人だけが世界に取り残されていくかのような錯覚におちいる。


「――小野おのくん」


 静かな声が響き、少年は顔だけでそちらを振り返る。仕切りのない一室に足音も立てずに入ってきたのは、この世のものとは思えないほど美しい一人の少女。腕のなかにタオルと着替えを抱える彼女は、未だ汚れたままの少年を見て小さなため息を落とす。


「いつまでそうしているつもりかしら。早くシャワーを浴びなさいと言っているでしょう。なんのために貴方をここまで連れてきたと思っているのよ」


 彼女――未来みくの言葉に対し、悠真ゆうまはそっと瞳を伏せた。

 少女が口にしたとおり、ここに悠真を連れ込んだのは他ならぬ未来だ。真冬の川へ飛び込んで凍えていた少年を見かねたのか、従者の女性が顔利かおききだというこのホテルに部屋を用意させたのである。

 二人で使うには広すぎる部屋と、上質な調度品の数々。美しい夜景を独り占めに出来る眺望ちょうぼうといい、一平民に過ぎない少年とは本来えんのない場所だ。

 普段の少年であれば自分と不釣り合いな空間に萎縮いしゅくし、とても平静でなどいられなかっただろう。しかし今日の彼はただもくし、窓の外に広がる聖夜を見つめるばかり。


「そこから見ていたところで、何かが変わるわけではないわ。貴方が今すべきことはその泥だらけの服を着替えて、身嗜みだしなみを整えることでしょう。そんな格好の人と同じ部屋に居なければならない私の気持ちも考えなさい」

「……悪い」

「…………。……風邪を引いても知らないわよ」


 いつもなら反抗して噛み付いてくるであろう場面でも、少年は謝罪の言葉を呟くだけ。その姿はまるで気性きしょうの荒い飼い猫が静かにベランダから外を眺めているかのようで、未来のほうが調子を狂わされてしまう始末だ。


「……七海ななみ


 手ずから用意したタオル類をバスルーム前に置き、室内中央のソファーへ腰掛けた未来に、窓の外を見たままの少年が問う。


桃華ももかのプレゼントは……どうなったんだ?」

「またその話? もう何度も説明しているでしょう」


 悠真が言及しているのは、桃華のクリスマスプレゼントの行方ゆくえについて。真冬の川に飛び込み、凍え死にそうになりながらもどうにか探し出したあの小箱は、未来の従者が少年の身柄と合わせて回収したのち、そのまま持ち去ってしまった。


「今、本郷ほんごうが尽くせる限りの手を尽くしているわ。あのプレゼントは人に渡せるような状態ではなかったし、こうなった以上は貴方ももう満足に動けないのだから、素直に任せておけばいい。いずれ彼女から連絡が入るはずだから、それまでにシャワーを済ませてしまいなさい――これで三回目よ。四回目は言わせないで頂戴」

「……悪い」


 再び謝り、それでも悠真は動こうとしない。桃華のことを心配しているのか、あるいは自責の念に駆られているのか……未来には理解わからなかったが、桐山きりやま桃華のクリスマスが終わるまで、彼はここから動くつもりがないのだということだけは理解わかった。


「…………」


 未来は、悠真のことを心配しているわけではない。少なくともその表情には微塵みじんの揺らぎもなく、ただ美しい黒瞳こくどうに少年の後ろ姿を映し続ける。本をひらくこともせずに。

 美しい少女と、泥にまみれた少年。向けられる想いをいとう者と、伝えられない想いにやぶれた者。なにもかもが正反対の存在を理解出来るはずがない。掛けてやれる言葉などない。

 それでも少女は、少年のかたを観察する。それは言い換えれば、彼女らしくもない他人への関心だったのかもしれない。


『――お嬢様。大変お待たせ致しました』


 少女の携帯電話に従者からの連絡が入ったのは、それから少し経ってからのことだった。



 ☆



 場面は表舞台へ巻き戻る。

 階段を下りようとする真太郎を呼び止めた桃華は、肩からげているかばんひらき、その中へ手を差し入れた。想い人の不思議そうな視線を受けながら少女が取り出したのは、今日のために用意したクリスマスプレゼント。

 それは――可愛らしくリボンが結ばれただった。


「あっ……ご、ごめん、


 自分の締まらなさに赤面した桃華は赤の小箱を鞄へ仕舞うと、改めて鞄の中身を手でさぐる。そして、今度こそ間違えることなく取り出した――真太郎のために用意した、青色のプレゼントボックスを。


 が鞄の中に入っていたことを、桃華が疑問視することなどない。当たり前だ。この青い小箱は今日の朝、〝甘色あまいろ〟へ出勤する前に桃華が自分の手で鞄に詰めたのだから。仕事が終わった直後、事務所で着替える際にももう一度確認したのだから。

 無論、包装紙がよごれていたり、箱が変形していることなどあるはずがない。だって、ずっと鞄の中に入っていたのだから。

 ゆえに、なんのとどこおりもなく物語は進行する。


「それは……もしかして、クリスマスプレゼントかい?」

「う、うん。せっかくの機会だから……あっ、でも大したものじゃないんだよ!? 喜んでもらえるか分からないっていうか、要らなかったら捨ててもらっても全然大丈夫っていうか!?」


 プレゼントを両手で抱えたまま、腕を出したり引っ込めたりする桃華。真太郎はそんな少女の姿をぽかんとした表情で見つめていたが……やがて、クスクスと可笑おかしそうに笑い出す。


「く、久世くせくん?」

「ふふっ……ごめんね、あんなに堂々と『受け取ってほしいものがある』なんて言っておいて、いざ取り出したと思ったら急に自信がなくなっちゃうのが面白くって」

「あう……」


 好きな人に笑われ、桃華は恥ずかしさを隠すようにうつむいてしまう。


「じゃあ――僕からも」

「……えっ?」


 彼の声に顔を上げると、桃華の目の前には小さな長方形の箱が差し出されていた。


「えっ……どぅえええええっ!? クリッ、プレッ……!? くく、久世くんが、私にっ!?」

「用意しているのはじぶんだけだと思っていたのかい? 今日クリスマスを楽しみにしていたのは、僕だって同じだよ?」


 茶目っ気のにじむ表情でそう言った真太郎から小箱を手渡され、慌てて桃華も自分のプレゼントを彼に渡す。


「あ……ありがとう、久世くん」

「うん。こちらこそどうもありがとう、桐山さん」

「……ぷっ」

「あははっ!」


 お互いにお礼を言い合う二人は、やがてどちらからともなく笑い出した。先ほどまで暗い顔をしていた真太郎も、今はうれいのない笑顔を浮かべている。


「今日は本当に楽しかったよ。小野くんが一緒に来られなかったのは心残りだけれど」

「……うん。だから」


 受け取ったクリスマスプレゼントを胸にいだきながら、桃華は言う。


「今度また、みんなで遊びに行こうよ。その時は悠真と……七海さんも誘って」

「!」


 真太郎が目を見開く。それは『未来とあの頃みたいな関係に戻りたい』と明かした真太郎を思っての言葉だったのだろう。


「……どうだろう。遊びに誘ったとしても、未来は来てくれないような気がするけれど」

「大丈夫、きっと悠真ならなんとかしてくれるよ! 七海さんとお友だちなんだし!」

「そこは小野くんに任せる気満々なんだね」


 謎に自信満々な桃華に苦笑する真太郎。そう単純な話ではないことくらい、きっと桃華も分かっている。思いつきのアイデアで簡単に解決出来る程度の問題なら、最初から真太郎は頭を悩ませたりしていない。

 それでも。


「――桐山さん」


 幼少の思い出が残る高台で、学園の王子様と呼ばれる少年は等身大の言葉を口にする。


「僕は〝甘色あまいろ〟を選んでよかった。桐山さんや小野くんと仲間になれてよかった。そう思うよ」


 そう言って、真太郎はもう一度笑った。そして大切な想い人の笑顔にれて、桃華も笑う。


「ねえ、久世くん。貰ったプレゼント、ここでけてみてもいい?」

「もちろん。気に入ってもらえると嬉しいな。僕も桐山さんのプレゼント、見てみてもいいかい?」

「うん! さっきはあんなこと言ったけど、実は結構自信あるんだー! すっごく可愛いし、久世くんのものだってひと目で分かるし!」

「えっ? それってどういう……?」


 ――こうして、少女の聖夜は幕を閉じる。

 この日、少女の恋は確実に一歩前進した。決して飛躍的なものではなかったが、想い人と二人きりでは話すこともままならなかった彼女が、これほど自然に笑い合えるようになったのだから。

 遠く輝くイルミネーションが、そんな二人の横顔を優しく照らし出していた。

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