第七二編 失われた笑顔

七海ななみさんと……ちょっと意外だね。私、七海さんっていつも一人でいる印象イメージだったから」

「……うん、ほとんどの人はそうだと思うよ。中学に上がる頃にはもう、彼女は笑わなくなってしまっていたから」

「笑わなく……」


 過去を思い出しているような真太郎しんたろうの言葉を、桃華ももかは唇の上で繰り返す。

 桃華は七海未来みくという少女のことをよく知らない。小学校はおろか中学校も違うし、高校生になった今も別のクラスに所属しているからだ。

 もちろんその美貌や家柄、才能を噂する声は何度も耳にしたことがあったし、桃華自身も彼女が廊下を歩く姿に思わず目を奪われたことはある。定期試験の順位表では常に首位にその名が刻まれており、「七海グループ」の高級車くるまが正門の前に停まっているところも見たことがある。

 だがこの程度の情報など、初春はつはる学園においては一般常識と大差ない。他にも「入学試験を満点で突破した」「男女問わず、他人と関わることを嫌う」「教師でさえも近寄りがたい存在」「外国の特殊部隊に所属経験のある凄腕従者がいる」等、真偽不明な噂話も数多く流されている。

」――これもまた、学園内でよく耳にする噂の一つだ。しかし、彼女と幼馴染みの少年は首を左右に振って否定する。


「今の未来しか知らない人には信じてもらえないかもしれないけれど……昔の彼女は、本当によく笑う子だったんだ」

「! そ、そうなの?」


 噂の真偽はともかく、桃華は未来があの無表情ポーカーフェイスを崩したところを一度として見たことがない。学校内はもちろん、〝甘色あまいろ〟においても。


「僕たちが初めてこの場所に来たときもそうだったんだよ。未来が先陣を切って僕たちを〝冒険〟に連れ出して、あっちこっち迷いながらようやく見つけたんだ。未来には同い年の従者がいたんだけれど、その子が泣きそうになりながら引き留めようとしても聞いてくれなくって……」


 当時のことを振り返って、少年は薄く微笑む。煌々こうこうとした記憶に、まぶしげに瞳をすがめながら。


「楽しかったなあ……あの頃は」


 だが彼は、すぐに声の調子を暗いものへと変えた。


「きっと、未来はそんな昔のことなんて覚えてないだろうけれどね。彼女は――変わってしまったから」


 真太郎の話が真実だとするなら、「変わった」という表現はまさしくその通りだろう。桃華の知る七海未来と真太郎の記憶に住まう七海未来はだ。正反対と言ってもいい。


「……どうして、七海さんはそんなに変わっちゃったの?」

「……分からない。きっと理由は一つじゃないし、それを聞き出すことも僕には出来なかった。ううん、仮に聞いたとしても、未来は教えてくれなかったと思う。今はもう、ろくに挨拶も出来ない関係になってしまったから」


 夜景を見つめる真太郎の横顔は寂しげだった。


「――僕が小野おのくんだったら、話してくれたのかな」

「えっ……?」


 小さな呟きは、口に出すつもりなどなかったものだったのだろう。桃華の反応を受けて、真太郎はハッとしたように顔色を変える。


「い、いや、その……ずっと一人でいたはずの未来が、最近はよく小野くんと一緒にいるみたいだったから……彼が相手なら未来も、本心を打ち明けたりするのかなと思っただけで」


 慌てて言い訳めいた言葉を口にしていた真太郎は、そっと瞳を伏せて続ける。


「……今日だって、小野くんと会うためにわざわざ〝甘色あまいろ〟まで来たんだろうし……小野くんが急にレストランへ来られなくなったのも、未来と二人で過ごしているからなのかもしれない」

久世くせくん……」


 彼らは知らない。物語の裏側など、知るはずもない。

 だから、彼らの目から見て映ってしまうのは仕方のないことだ。この聖夜、人混みを嫌うはずのお嬢様は同僚少年と会うためだけに喫茶店を訪れたのだと。が今日来られなかったのは、自分たちよりもお嬢様と過ごす時間を優先したからなのではないかと。

甘色あまいろ〟を出発してからここまで、真太郎はどこか上の空だったが……今にして思えば、彼はずっと未来たち二人のことを考えていたのかもしれない。だから未来とゆかりのあるこの場所を、夜景スポットとして選んだのかもしれない。


「……ねえ、久世くん」


 こちらを振り向いた真太郎に、桃華は一瞬迷いを浮かべてから尋ねる。


「もしかして久世くんって……七海さんのことが好き、だったりするの?」

「! ち、違うよッ!」

「わっ!?」


 桃華の問いを大声で否定した真太郎は、すぐにハッとして「ご、ごめんっ、大きな声出して……」と謝罪する。


「……違うんだ。そういうのじゃなくて……」


 再び、少年は目の前に広がる夜景を見つめる。ずっと遠く、何よりも明るく輝くクリスマスツリーに彼がなにを重ねているのか、桃華には分からない。


「ただ僕は、未来とあの頃みたいな関係に戻りたいだけなんだ。僕にとって彼女は大切な幼馴染みだから……」


 真剣な表情で、少年は語る。


「大切な人には、いつも笑っていてほしいじゃないか」

「……!」


 静かな夜に、木々のざわめきが流れる。

 少年の言葉に桃華がなにも答えられずにいると、やがて彼は照れくさそうに笑った。


「な、なんだか暗い話になってしまったね。せっかくのクリスマスなのにごめんね、桐山きりやまさん」

「えっ、あっ、えっと……」

「もう遅い時間だし、そろそろ帰ろうか。家まで送るよ」


 そう言って高台からりようとする真太郎に、桃華は「ありがとう」と返そうとして――思いとどまる。


「(『大切な人には、いつも笑っていてほしい』……)」


 桃華もその通りだと思う。きっと、誰だってそうだ。

 大切な相手には笑顔でいてほしいものだ。それが親愛であれ、友情であれ、恋慕であれ。

 だったら――


「く、久世くんっ!」

「わっ!? ど、どうかしたかい、桐山さん?」


 先ほどとは正反対に、突然大声を発した桃華に驚く真太郎。

 手摺てすりに手を掛けて階段を下りようとしていた彼のことを見下ろしながら、少女は告げる。


「あの……う、受け取って欲しいものがあります!」


 彼女の手は、肩からげたかばんに添えられていた。

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