第六九編 「だから貴方は愚かだというのよ」

 それは、悲痛な叫びだった。


「じゃあッ! どうしろって言うんだよッ!?」

「…………」


 今にも泣き出してしまいそうな表情で掴みかかってきた悠真ゆうまに対し、未来みくはなんの抵抗も行わなかった。

 彼の手をかわすことなど容易だった。はたき落とすことだって出来た。けれど少女は、ただ黙って少年の瞳を見つめ返す。

 主人の意向を正しく察した従者の女が車の外に控えるなか、少年は胸中に渦巻く感情を吐き出すように続ける。


「俺はどうすれば良かったんだよ!? 分かってんだよ、自分がどんだけ馬鹿かってことも、お前にどんだけ迷惑掛けてるかってことも! それでもこんなやり方しか出来ねえから、俺はここにいるんだろうが!?」


 それは子どもの駄々にも等しい言葉だった。少女の言葉で強制的に自覚させられた己の未熟さに対するひらなおり。器用に生きることが出来ない彼の、苦しまぎれの言い逃れだった。


「あの子には――桃華ももかには、自分の恋を叶えてほしかったんだ! 自分の恋を諦めないでほしかったんだ! その相手が俺じゃなくたっていい! ただあの子には……俺みたいにだけはなってほしくなかったんだよッ……!」


 少女の胸ぐらを掴む両手が震える。今、彼の瞳ににじんでいるのは後悔の色でも絶望の色でもない。苦しみと痛みに満ちた、失恋の色だ。


「自分でも自分が馬鹿だって思うさ……! 一〇年あっても惚れた女に『好き』の一言も伝えられなかったようなヤツが、他人の恋愛をどうこうしようなんて馬鹿げてるって……! でも、仕方ねえじゃねえか……! こんな馬鹿な真似をしちまうくらい、あの子のことが好きだったんだよ……! それを言葉にする勇気はなかったけど、ずっと好きだった気持ちは嘘じゃないんだよ……!」


 少年の瞳を滲ませていたものが、泥にまみれた彼の頬からこぼれ落ちた。抱えきれない想いが凝縮された一滴は、黒のドレスに吸い込まれて消える。


「あの子のことが好きだから、あの子にだけはこんな思いはしてほしくない……失恋の痛みなんて、味わってほしくない……! あの子がつらい思いをして泣いちまうくらいなら、自分おれが苦しいほうがずっとマシだ……!」


 たとえそこにどれだけの辛苦しんくが待ち受けていたとしても。

 たとえ唯一の協力者にさえ理解してもらえなくても。

「馬鹿馬鹿しい」と、「くだらない」とさげすまれても。

 それでも彼は、自身のかたを後悔してはいなかった。


「俺みたいな意気地いくじなしには、あの子に『頑張れ』なんて伝える資格なんかない……正面切ってあの子の恋を応援してやることなんて出来ない……俺にそんな度胸があるなら、とっくの昔に告白してる」


 自嘲と呼ぶにはあまりにもつらそうに、少年の表情がゆがむ。


「だから俺は、こんなことしかしてやれない……! 桃華が気付いてくれなくたっていい……感謝されたいわけでも、友だちとして――幼馴染みとしての好意がほしいわけでもない……!」


 以前、未来は悠真にたずねたことがある。

『どうして〝彼女〟の恋を叶えたいのか』と。


「俺はただ――桃華に幸せになってほしい」


 少年は、ようやく「答え」を口にする。


「それだけなんだよ……それだけ、だったんだよ……!」


 その手に込められた力は、痛ましいほど弱々しく。

 その言葉に込められた想いは、狂おしいほど重々しく。

 その姿は苦しそうで、つらそうで。

 その在り方は衝動的で、みじめで、歪んでいて、愚かで。


「――少なくとも」


 それでもなお、美しい少女ははっきりと告げる。

 貴方の考えなど知らぬとばかりに。貴方の想いなど知らぬとばかりに。

 無表情のまま、無感情に、興味なさげに、淡々と。


 ――〝事実〟を。


「私が〝彼女〟の立場なら、今の貴方の姿を見て『幸せ』を感じることはないと思うけれど」

「――――!」


 そのたった一言に、悠真は瞳を大きく見開く。

 七海ななみ未来は、桐山きりやま桃華のことなどなにも知らない。欠片かけらほどの興味もない。

 そんな彼女でも簡単に理解わかる。自分のために無茶な真似をする幼馴染みの姿を見て、喜ぶ者などいるはずがないと。


「う……ぐ……っ……! うあ、あ……っ……!」


 悲しそうに目を伏せる想い人の姿を幻視げんししたのだろうか。瞳を揺らがせる愚者の少年は未来の胸元に掛けていた手を力なく落とし、やがて喉からかすかな嗚咽おえつらし始める。


「……だから貴方は愚かだというのよ」


 膝の上に崩れて涙を流す悠真に対し、未来は静かな声音で先ほどと同じ言葉を繰り返した。しかし、もうそこには呆れも冷たさも残っていない。

 少女だけが、少年の愚行を見ていた。彼女だけが、自分の在り方を客観視出来ていない彼のことを外野から見てきた。

 だから、未来だけは知っている。小野おの悠真の想いのたけを。想い人の笑顔のために全力を尽くす愚者の姿を。


「――――」


 少年の髪からしたたる水が、ドレスのすそを薄く濡らす。少女はそれをとがめることもせず、彼の頭にかぶせたタオルでそっと水気を拭き取っていく。

 その様子はどこか、姉のようでもあった。手の掛かる弟を厳しく叱りつける姉、泣いてしまった弟を優しくでる姉だ。


「――本郷ほんごう

かしこまりました、お嬢様」


 主人のめいに、運転席へ乗り込んだ従者は車を発進させる。

 その静かな振動に、よごれてしまった青色のプレゼントボックスが小さく揺れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る