第六八編 爆発

 俺はまず最初に、自分の耳と目を疑った。聞こえるはずのない声が聞こえ、見えるはずのない姿が見えたから。

 いや、疑ったのは頭かもしれない。寒さと絶望のあまり、とうとう頭がおかしくなったのではないか――そんなことを、割と真面目に考えてしまった。

 だって、それぐらいの衝撃だろう。先ほどまで喫茶店でクリスマスケーキを食っていたはずのお嬢様が、こんな街灯のひとつもない場所に現れたのだから。


「な……七海ななみ……?」

「…………」


 俺の声に、聖女と見紛みまがう美しさの少女はなにも答えてくれなかった。ただその黒の瞳で、静かに俺を見下ろしている。

 そして彼女はそっと瞑目めいもくし、呟いた。


「――本郷ほんごう

ただちに」


 一瞬のやり取り。しのびもかくやという速さで足元の悪い石階段を駆け下りて来たのは七海の従者・本郷さんだった。彼女は俺の有様をどこか痛ましそうな表情で確認すると、即座に俺の身体を横抱きで軽々と持ち上げた。


「……ぇっ」


 まさかのお姫様抱っこである。満身創痍まわしんそういの身体から本気で困惑の声が出た。


「無礼をお許しください、小野おの様。今は一刻を争いますので」

「ぇっ、ぁっ、ハィ……?」


 平均的な男子高校生一名を発泡スチロールかなにかのように持ち上げた本郷さんはそのまま、下りてきた時と変わらない速度で階段を駆け上がった。しかも、抱えられている俺にはまったく振動を感じさせないほどの安定感だった。いったいどういう筋肉量だよ怖い。そしてその光景をごく当たり前のものであるかのように見ているお嬢様も怖い。

 そして七海家の高級車くるままで運ばれた俺は、異様に広い車内の座席ソファに座らされる。


「――早く脱がせてしまいなさい」

「はい」


 背後に立つお嬢様の命に従い、本郷さんは俺の安物コートを手早く脱がせた。次はシャツ、次にインナー。さらにはベルトを引き抜いてズボンを下ろし、最後の仕上げとばかりにパンツへ手を掛け――


「じゃねえよッ!? なな、なにしてんスかアンタ!?」

「動かないでください、小野様。パンツが脱がせません」

「脱がすなッ!? えっ、なんなのこの状況!? おい七海!? お前の従者、高一男子を脱がそうとするようなヤバい人だったの!?」

「――いいから黙って脱がされなさい。この状況ではそんなもの、邪魔にしかならないわ」

「お前もヤバいヤツなのかよ!? ちょっ、本当に待ってッ!? やめてッ、乱暴しないで――クシュッ!?」


 純潔を奪われる乙女のようなことを口走っていた俺は、クシャミひとつで自分の置かれている状況を思い出す。途端に凍えを思い出して身体を縮こまらせると、七海は嘆息しながら自分のコートの留具を外して言った。


「――貴方の愚かさを甘く見ていたわ、小野くん。貴方を過大に評価しているつもりなんて微塵みじんもなかったのだけれどね」


 冷たい声音こわねでそう告げながら、彼女は俺の身体に上着を投げ掛けた。お嬢様の体温と香りが残った毛皮のコートはとても温かく、車内の暖房と合わせてみるみるうちに俺の体温を正常なレベルまで引き戻していく。


「その格好とを見ればある程度想像がつくけれど……敢えて聞くわ。貴方、こんなところでいったい何をしていたの?」


 本郷さんと入れ替わりで車内に乗り込んだ七海に問われる。「それ」というのが何をしているかなど、聞くまでもない。本郷さんが俺と一緒に回収し、座席横のテーブルに置いた青色のプレゼントボックスだ。

 静かにこちらを見下ろしてくる七海に対し、俺は彼女の瞳を見返すことが出来ないまま、ぼそぼそと答える。


「……桃華ももかのプレゼントを橋からうっかり落としちまって……どうにか探し出そうとして、川に……」


 七海は静かに聞いていた。相変わらずの無表情で、感情の読み取れない瞳で。

 ただ、それでも分かった――彼女が今、


「――まさか貴方がここまで愚かだとは思わなかった」


 冷たい響きを伴って、七海は言う。


「愚行と呼ぶにも限度がある。クリスマスプレゼントごときのためにこんな馬鹿な真似をして……もしも私たちが偶然通り掛かっていなかったら、貴方はどうするつもりだったのかしら」

「…………」


 七海の言葉に、俺はなにも反論することが出来ずに黙り込む。

 当然だった。もし彼女たちがこの道を通っていなかったら、あるいは通っていても、真っ暗な土手にいる俺の存在に気付いてくれていなかったら。真冬の夜にずぶ濡れで倒れていた俺は、本当に凍死でもしていたかもしれない。命を落としていたかもしれない。

 むしろそんな結末を辿る可能性のほうが遥かに高かったはずだ。文字通り、九死に一生を得た。「聖夜の奇跡」なんて言葉では説明がつかないほどの幸運に恵まれ、俺は今ここにいるんだ。

 ちゃんと分かっている。彼女が呆れるのももっともだと。


「――何度か伝えたわね、小野くん」


 七海は続ける。


「私には貴方の行動や思考が理解わからない。他人同士の恋愛に尽くそうとする気持ちも、一切の見返りを求めない姿勢も理解出来ない。私が貴方に協力するのはそれが『対価』だからであって、貴方の行いに共感してのことではないもの」

「…………」

「むしろ、そんなみじめな姿になってまで『彼女』のために尽くす貴方は異常だとさえ思っているわ。のために無茶な真似をして……馬鹿馬鹿しいことこの上ない」

「…………!」


 泥で汚れた小箱を、ゴミでも見るかのような目で見下ろす七海。

 おそらく、彼女の言葉に一切のいつわりはない。彼女は本気で、俺の行いを「馬鹿馬鹿しい」と思っている。なぜだか俺は、そのことが妙につらかった。

 だって彼女は、俺にとって唯一の協力者だったから。たった一人の頼れる相手だったから。「理解出来ない」と言われながら、どこかで勝手に期待していたのかもしれない。本当は彼女も少しくらい、俺の気持ちを理解わかってくれているのではないかと。

 だが、そんなものは幻想だった。目の前にいる少女の表情かおを見れば分かる。七海はずっと、俺のことを冷めたで見ていたのだと。


「――くだらないわ、本当に」


 追い打ちをかけるように、七海が言う。


「貴方は自分のり方を客観視出来ていない。いつも自分の気持ちと価値観だけで衝動的に行動して、その結末を想像しようともしない。能力も精神も未熟なまま、目標ばかり高くえている。落としどころもわきまえずに」


 俺は喉になにかが詰まったような感覚に顔をうつむける。


「だからおよそ必然的な結末をの当たりにした時も、貴方は必ず後悔する。叶うべくもない理想をかかげておきながら、『あの時こうしていれば』『ああしていれば』と、変えようもない過去に無意味な仮定を並べてやむ」


 力が入らないこぶしをぎゅっと固める。


「貴方にもう少し洞察力があれば、自分に見合った目標設定とそれに向けた筋書すじがきを用意出来たでしょう。貴方にもう少し観察力があれば、状況に応じた自分あなたの立ち位置を考えることが出来たでしょう。……けれど、『恋は盲目もうもく』とはよく言ったものね。貴方には周りのことなんて、何一つ見えていない――」


 目頭めがしらの熱に唇を噛む俺に、美しい少女は言う。


「だから貴方は愚かだというのよ」


「――じゃあッ! どうしろって言うんだよッ!?」


 とうとうこらえきれなくなった俺は、爆発する感情と衝動に身を任せて七海のむなぐらに掴みかかった。このお嬢様を、命の恩人を相手にとっていい態度ではない。それでも、どうしても我慢することが出来なかった。

 七海は何も言わなかった。驚くことも振り払うこともせず、ただ静かに俺の瞳を見つめ返していた。

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