第六七編 変化する未来

「申し訳ありません、お嬢様。この様子だと、到着までもうしばらく掛かってしまうかと」

「――そう」


 中央公園周辺の交通規制の余波を受けて渋滞じゅうたいする聖夜の大通り。七海ななみ家の高級車リムジンの車内でソファシートに身を預ける少女は、従者からの報告に興味なさげな声を返した。車窓しゃそうから外の景色へ目を向ければ、たくさんの人が一定の方向へ歩いていく様子が見える。 

 そんな世俗の風景からやはり興味なさげに視線を切ると、少女は車内の本棚から適当な単行本を手に取った。時間がけば読書。いわゆる「本の虫」である彼女にしてみれば、交通渋滞によって時間を浪費することなどない。朝の教室で、昼休みの屋上で、邸の書庫で。いつもそうしているように、車内ここでも本を読んで過ごすだけ。


「――……」


 ぱたり、と音が鳴った。

 少女が本を閉じた音だった。


「…………」


 代わりに、再び窓の外へ目を向ける。流れていくのは先ほどとなにも変わらない、聖夜の街をく人々の姿。そんな風景を、ただぼんやりと眺める。

 それは少女が嫌う「時間の浪費」に他ならなかった。それをよく知る従者の女は、バックミラー越しに主人へ問い掛ける。


「お嬢様……? どうかなさいましたか?」

「……なんでもないわ。ただ理解出来ないだけ。今日という日を特別視する人間が、世間にこれだけ居るという事実を」


 少女には「特別な一日」などというものはない。聖夜クリスマスも、大晦日おおみそかも、自分の誕生日だってそう。ただいつもと同じように朝陽が昇り、同じように夕陽が沈むだけ。日付など、特定の二四時間を示すための記号に過ぎないのだから。

 そんな主人に、従者は困ったように笑みを浮かべる。


「たしかに、こういった行事はお嬢様のご趣味には合わないかもしれません。美紗みさ様であれば、むしろ好まれるのではないかと存じますが」

「――あの子は私と違って、環境の変化や世間の風潮にことが得意な子だもの。いつも通り日本こっちに居たら、今年も学校の友だちとパーティーでもしていたでしょうね」

「それなら、お嬢様も一度お試しになってみては? せっかく小野おの様というご友人を作られたのですから、クリスマスパーティーを楽しむというのもまた一興かと」

「いいえ、結構よ」

「宜しければ私がパーティーのセッティングを致しましょうか!? こと様は世間の行事にあまり関心を示されないので別邸を会場にすることは難しいでしょうし!」

「いいえ、結構よ」

「実はこのすぐ近くに私の叔母おばが経営にたずさわったホテルがあるんです! 規模こそ小さいですが、設備とサービスは最高階級に勝るとも劣りません! 会員制なので一般のかたは入れませんし、お嬢様とご友人が静かに過ごされるにはうってつけではないかと! いかがでしょうか!?」

「そうね、とりあえず私の言葉を聞いてほしいわ」


 熱が入って鼻息を荒くする従者に冷めた目を向けてから、少女は窓の外へ視線を戻す。


「――くだらないわ」


 クリスマスで浮かれる世間も。

 クリスマスプレゼントのために走っていった彼も。


「……なんの意味が、あるというのよ」


 同じように朝陽が昇る今日に。

 同じように夕陽が沈む今日に。

「聖夜」のかんむりで飾られただけの平日に、いったいどれほどの価値がある。

 頭の隅に残って消えない、あの少年が浮かべていた悲しくて苦しい表情に、いったいどれだけの意味がある。

 そんなもの、時間の無駄にしかならないだろう。そうするくらいならば、本の一冊でも読んで過ごしたほうがよほど有意義だろう。

 無意味に車窓を眺める少女は不機嫌だった。自分でも気付くことが出来ないほど小さな、しかし確かな苛立ちを抱えていた。

 そして主人の無表情ポーカーフェイスを見て、従者の女は寂しそうに微笑んだ。


「……失礼致しました、お嬢様。出過ぎた真似をお許しください」

「…………」

「この大通りはしばらく動きそうにもありませんので、横道にれて渋滞を回避致します。少し遠回りになってしまいますが、宜しいでしょうか?」

「……ええ、構わないわ。そうして頂戴」

かしこまりました」


 大きな橋を越えてすぐ、少女を乗せた車は薄暗い土手沿いの道路に入った。全長の長い高級車リムジンで走るには向かない道だが、基本的に優秀ハイスペックな従者はその卓越した運転技術で難なく走行している。

 かどをひとつ曲がっただけで途端に世間のクリスマスムードが遠くに感じられ、少女の小さな苛立ちも緩和される。これならいつものように落ち着いて読書が出来そうだと、彼女は窓から目を――


「! 停めて」


 主人のめいに、従者は間髪かんぱつ入れず停車した。非常点滅表示灯ハザード・ランプが明滅するなか、少女は外に広がる暗闇へじっと目をらし、耳をます。

 視界下部から聞こえてくるのは静かな水の音と、強風に木々がざわめく音。それらにまぎれ、明らかに自然によるものではない――人か動物が出している音がする。

 暗く静かな冬の川をなにかが横断するように飛沫が上がる。なにかがき分けてい進んでいるかのように草木が揺れる。


「――――!」


 まさか、と感情に乏しい瞳を見開く。視力や聴力、その他の五感・六感にも優れる少女は、生まれて初めて自らの目と耳を疑った。

 だって、信じられないだろう――こんな真冬の夜に、ろくに整備もされていない河川を泳ぐ者がいるなど。

 その者が、見覚えのある小箱を抱えていたなど。


 その少年が――少女の知る〝彼〟であったなど。


「なにを……!」

「お嬢様!?」


 従者の声を置き去りにし、令嬢は自らの手でドアを開けて車外へ飛び出した。前照灯ヘッドライトの光を背に受けながらやって来たのは、川辺かわべへと続く雑草まみれの階段前。

 少年はその長い階段を四肢しし、いや、三肢さんしうように上がってくる。けた右腕で、青色のプレゼントボックスをかばいながら。


「……どうして」


 ――どうしてそこまでするのよ。

 あらゆる者より聡明な少女は、大まかな状況を察して心中呟く。

 彼の身体はボロボロだった。土と泥にまみれたコート。川の水を吸って重く濡れたズボン。頬は砂に汚れている。左腕は無数のこまかい傷を負い、れたように赤くなっている。

 最初から苦しそうだった表情は、今や絶望の色に染め上げられていた。それは己の無力を感じてのものか、もしくは生命の危機を察してのものか。その砕けた心を表すかのように、彼の腕から小箱が転がり落ちた。


「ちくしょうッ……!」


 愚者の声がした。


「――――」


 愚者の声はその瞬間、少女のなにかを変えた。


「――まったく、見ていられないわね」


 それは小さな――本当に小さな変化かもしれない。

 けれど確かに、少女を変えた。

 ずっと変わらなかった少女を、確かに変えたのだ。


「な……七海ななみ……?」


 少年は愚かだった。

 しかし彼の愚行は、間違いなく未来みらいを変えた。

 そんな少女の前に平伏ひれふすかのように、騒がしかった風が鳴りをひそめた。

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