第六六編 ショート・ケーキ
美しい少女は不機嫌だった。
聖夜の喫茶店、最奥の七番テーブルに陣取る彼女は今、周囲から向けられる視線に苛立ち、
店に入ってきた客が、隣の席に座っている
「…………」
とうの昔に尽き果てたため息の代わりに、少女は手元のチョコレートケーキを口へ運んだ。最後の一口を食べ終え、少し冷めているコーヒーを傾ける。
これだから、こんな日に喫茶店になど来たくはなかったのだ。期間限定のケーキも持ち帰りで用意させればよかった。せっかく楽しみにしていたのに、こんな騒がしい場所で食べては台無しである。もっと静かな場所で、推理小説でも片手に味わって食べるべきだった。
糖分とカフェインを摂取しても消えない不快感。目的は果たしたのだから早く店を出てしまおうと、少女は席から立ち上が――
「…………。…………」
――ろうとして、しかしその動きをピタリと止める。視界の隅、彼女の対面席に放置されたショートケーキの存在が引っ掛かって。
『――ありがとう、ごちそうさま』
「…………」
そう言い残して立ち去っていった少年の横顔を思い返す。身勝手で
たった一切れのケーキも食べ切らぬまま、他の誰かのために飛び出していった愚者のことを。
「……どうして、あそこまでするのかしら」
それは他の誰にも聞こえない極小の呟き。無口な彼女にはとても珍しい独り言だった。
少女には
「…………」
少年が立ち去った席から、ケーキの皿とフォークを引き寄せる。せっかく綺麗に装飾された特別なケーキだったのに、彼が雑にフォークを
きっと、彼にとってこのケーキは特別なものに映らなかったのだろう。対面に座る少女のことも、意識などしていなかったのだろう。彼の頭にあったのは、ここにいない二人の同僚のことだけ。もっと言えば、想い人の初恋のことだけだったのだろう。
「――――」
フォークを手に取り、彼が残したショートケーキを口にする。甘い。当然のことながら、苦味など微塵も感じられない。
数分もしないうちに、少女はケーキを食べ終える。彼が食べられなかった一切れを。
「…………」
他人と他人の恋愛に、あれほど真剣になれるのか。
惚れた女の恋を叶えようとする気持ちが。
痛みと苦しみを感じながら、それでも踏み
そんなに痛いなら、放り出してしまえばいい。
ケーキの一切れも食べられなくなるほど苦しいなら、さっさと諦めてしまえばいい。
そうすれば、この一皿くらい簡単に食べられただろうに。
そうすれば、一切れのケーキさえ入らなくなるほどの
「…………」
くだらない、と胸のなかで呟いて、少女は静かに瞑目する。
あの少年のことを理解する必要などない。だって、少女にとっては彼も「他人」なのだから。
それで
「ありがとうございました、またお越し下さいませ」
青年店員の一礼を背景に店を出る。今日は随分と冷える日だ。強く冷たい風に、コートを
すぐに、店の前に停められている
「おかえりなさいませ、お嬢様。お身体に
「…………」
少女は車へ入ろうとしなかった。長身の従者が即座に機転を
「……心配なのですね、
そっと肩へコートを掛けながら、従者が言った。
「――つまらない冗談を言うのね、
「いえ、お嬢様。私に
主人の
「…………」
従者の視線から逃れるように、少女はそっと顔を俯ける。
心配しているわけではない。あの少年に対し、そこまで明確な感情などありはない。
ただ、考えてしまうだけ。
それだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます