第六五編 バッドエンド

 真冬の水の中は冷たかった。

 服が肌に張り付く感覚は不快で、しかしそれすら感じられないほどに冷たかった。

 冷たく、そして痛い。

 極限まで低下した体温に脳が痛覚信号いたみを訴えている。

 それでも俺は突き進んだ。

 愚かにも、前進することをめられなかった。


「ハアッ、ハッ、ハアッ、ハッ……!」


 土手から川を横断し、どうにか桃華ももかのプレゼントボックスがある中洲なかすまで辿り着いた頃には、俺の全身はずぶ濡れもいいところな有様ありさまだった。川自体は一番深いところでも腰上くらいまでしかないものの、布製の衣類はどうしたって水を吸うし、石がゴロゴロしている川底は不安定で歩きづらく、よろけるたびに上半身を濡らしてしまった。流石に顔面から水に突っ込むことはなかったが、気分的には寒中水泳を行ったようなものである。


「ゲホッ、ゲホッ! ハアッ、ハッ、ハッ、ハアッ……!」


 呼吸がおかしい。肺に取り込んだ酸素が痛い。全身が震える。視界が揺れる。まともに立ち上がることさえ難しい。

 土手から中洲ここまで、わずか一〇メートル。言葉にすればたったそれだけの距離だというのに、俺は既に体力の大半を消耗していた。「寒さ」とはかくも酷烈なものなのかと、微温ぬるい一六年を生きてきた身体が思い知る。そよ風に等しい空気の流れが、水に覆われた全身からすべての熱を奪い去っていった。


「ハアッ、ハッ……と……どけッ……!」


 震えてまともに伸びない右腕を伸ばし、中洲に生えた木の枝に引っ掛かっている小箱を取ろうと試みる。せいぜい俺よりも少し大きいくらいの低木なのに、あと一歩のところで届かない。極寒に収縮する筋肉は、俺の気持ちにこたえてくれなかった。


「グウッ!?」


 その時、強い風が横から俺を殴りつけてきた。思わず伏せてしまいそうになる顔をどうにか上げると、霞む視界内に青色のなにかが落下した。


「ッ!」


 反射と呼ぶにはあまりにも緩慢な動作で、それでも今の俺に出せる一二〇パーセント全開の瞬発力を発揮し、水没ギリギリのところで小さな箱を確保。その次の瞬間には俺の身体がズザザッ、と地面に倒れ込んでいた。文字通り、すべてをなげうった全身全霊のフライングキャッチだ。


「ハアッ、ハアッ……よかっ、た……いてて……!」


 あと一歩遅ければ桃華のプレゼントが夜の川に喰われていた。その事実に冷や汗が噴き出す。凍えて死にそうなくらいなのに、こんな時でも出るものなんだな。

 安堵の息に続いて擦過さっかの痛みが走る。ついでに何ヶ所か浅い裂傷が出来ているのは、飛び込んだ際に木の枝かなにかで切ってしまったのかもしれない。


「はやく、もどらねえと……!」


 プレゼントが無事で良かったとはいえ、本来の目的を失念してはならない。桃華が久世くせにプレゼントを渡すまでに、これを彼女の元へ届ける必要がある。一連のプレゼント救出劇は俺の失態ミスにより余計な回り道をすることになっただけで、当初の問題はまだなに一つ解決していないのだ。


「はあ……はあ……いくぞ……グゥッ……!?」


 再び、冬の川へ踏みる。一度この冷たさを経験してしまうと足がすくむ。実際は水中は風の影響を受けない分、むしろあたたかく感じられるほどだったが……それは裏返せば、土手に上がったあとの地獄を意味しているとも言えよう。

 そもそも川の深さが腰までしかないのだから、上半身は今も死ぬほど寒い。もっと言えば、水に浸かっている下半身も固まってロクに動かなくなっているくらいには冷たい。風に吹かれる上半身よりはマシというだけだ。


「ハアッ、ハアッ……ゲホッ、エホッ!?」


 なんとか最初の土手まで戻り、地面にいつくばりながら激しく咳き込む。濡れた頬を左手の甲で拭うと、ザリザリと湿気しけった砂の感触がした。


「ゴホッ、ゲホッ! さ、さすがに、バカだったな……」


 己の愚かしさを自嘲し、唇を吊り上げようとして失敗する。ガチガチガチ、と奥歯が打ち合わされる音が響く。事前に川岸へ放り出しておいた安物のコートを肩の上からどうにか羽織はおってみるものの、焼け石に水だった。ゼロコンマ数度の体温を取り戻したところで、容赦なく吹きすさぶ強風が数倍の温度を消し飛ばしてしまう。


「ハア……ハア……い、いかねえと……はやく……」


 腕に力を込めようと試み――失敗する。

 膝を曲げて立ち上がろうと試み――失敗する。

 寒い。冷たい。痛い。苦しい。つらい。頭の中を弱音が埋め尽くす。知力もなければ体力もない俺にとって、桃華のために振るえる武器は唯一、気力のみ。その気力さえ、聖なる夜に消えゆこうとしている。

 まぶたが急激に重くなっていく。


「あきらめて、たまるか……!」


 自分に言い聞かせ、惨めに草のあいだい進む。右腕はプレゼントで塞がり、使えるのは両足と左腕のみ。体重の多くが片腕にのし掛かり、細かい石が何度も食い込んだ。


「あきらめて……たまるか……」


 泥にまみれ、時間を掛けて土手を抜ける。残すは土手沿いの道路に続く、雑草に侵食された長い石階段。犬猫がそうするように四肢ししを、いや三肢を交互に動かし、一段ずつノロノロとのぼっていく。


「あきらめ、て……」


 ガクッ、と右膝が折れた。追い打ちを掛けるように風が横合いから身体を押し、石段の上で俺はとうとう力尽きる。


「……なんで……だよ……!」


 どうして動かない。

 どうして動けない。

 こんなところで諦めるのか。

 また諦めるのか。

 もう諦めるのは嫌だったんじゃないのか。

 彼女が――桃華が待っているのに。

 たとえあの子が気付いてくれなくたって、それでもあの子の笑顔を守りたかったはずじゃないか。

 あの子の悲しむ姿を見たくないから、俺は愚者に成ったんじゃないか。

 愚者を演じ切ることすら出来ないのか、俺は。

 だったら、いったいなんなんだ、俺は。


 俺の一〇年間はつこいは、なんだったんだよ。


「…………っ!」


 悔しさに目の奥だけが熱を帯びる。闇雲に右腕を前に突き出そうとして、やはり失敗。代わりに腕の中から、桃華のプレゼントが転がり落ちた。

 俺が水に濡れた手で触ったせいか、綺麗な青色の包装紙が汚れてしまっている。箱も少しゆがんで見える。これでは、とても久世に渡せそうもない。

 仮に綺麗なままだったとしても、どうやってこれを桃華の手元まで届けるつもりだったんだ。その答えも出ないままだった。


「(なんだよ……結局、全部無駄だったってことじゃねえか)」


 走って、探して、凍えて、汚れて――それらはすべて空回からまわり。俺も、桃華も、久世も、バイト先の先輩たちも、誰も望んでいなかったはずの結末。

 誰も幸せになれない最悪の結末バッドエンド


「ちくしょうッ……!」


 悔恨かいこんに任せて石段を殴りつけることすら出来ない。失意と絶望が暗闇とともに俺におおかぶさってきた。

 もう嫌だ。もう疲れた。ここで、眠ってしまおうか。

 そうして、俺はを閉じ――


「――まったく、見ていられないわね」


 んだ声が聞こえた。

 それはどこか、いつも偉そうに命令してくる誰かの声に似ている気がして、「そんなはずがない」と否定する理性を無視し、俺はゆっくりと顔を上げた。

 最初に視界に入ったのは、絢爛けんらんでなくとも美しい黒のドレスだった。続いて同色の黒髪、そしてこちらを静かに見下ろす黒瞳こくどう。あらゆる感情が驚愕の二文字に塗り潰されるなか、愚者おれは見上げる。

 後光のように白い輝きをまといながら、胸の前でしなやかに腕を組んでいる彼女――七海ななみ未来みくを。


 その姿は、どんな聖女などよりも美しく思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る