第六五編 バッドエンド
真冬の水の中は冷たかった。
服が肌に張り付く感覚は不快で、しかしそれすら感じられないほどに冷たかった。
冷たく、そして痛い。
極限まで低下した体温に脳が
それでも俺は突き進んだ。
愚かにも、前進することを
「ハアッ、ハッ、ハアッ、ハッ……!」
土手から川を横断し、どうにか
「ゲホッ、ゲホッ! ハアッ、ハッ、ハッ、ハアッ……!」
呼吸がおかしい。肺に取り込んだ酸素が痛い。全身が震える。視界が揺れる。まともに立ち上がることさえ難しい。
土手から
「ハアッ、ハッ……と……どけッ……!」
震えてまともに伸びない右腕を伸ばし、中洲に生えた木の枝に引っ掛かっている小箱を取ろうと試みる。せいぜい俺よりも少し大きいくらいの低木なのに、あと一歩のところで届かない。極寒に収縮する筋肉は、俺の気持ちに
「グウッ!?」
その時、強い風が横から俺を殴りつけてきた。思わず伏せてしまいそうになる顔をどうにか上げると、霞む視界内に青色のなにかが落下した。
「ッ!」
反射と呼ぶにはあまりにも緩慢な動作で、それでも今の俺に出せる一二〇パーセント全開の瞬発力を発揮し、水没ギリギリのところで小さな箱を確保。その次の瞬間には俺の身体がズザザッ、と地面に倒れ込んでいた。文字通り、すべてを
「ハアッ、ハアッ……よかっ、た……いてて……!」
あと一歩遅ければ桃華のプレゼントが夜の川に喰われていた。その事実に冷や汗が噴き出す。凍えて死にそうなくらいなのに、こんな時でも出るものなんだな。
安堵の息に続いて
「はやく、もどらねえと……!」
プレゼントが無事で良かったとはいえ、本来の目的を失念してはならない。桃華が
「はあ……はあ……いくぞ……グゥッ……!?」
再び、冬の川へ踏み
そもそも川の深さが腰までしかないのだから、上半身は今も死ぬほど寒い。もっと言えば、水に浸かっている下半身も固まってロクに動かなくなっているくらいには冷たい。風に吹かれる上半身よりはマシというだけだ。
「ハアッ、ハアッ……ゲホッ、エホッ!?」
なんとか最初の土手まで戻り、地面に
「ゴホッ、ゲホッ! さ、さすがに、バカだったな……」
己の愚かしさを自嘲し、唇を吊り上げようとして失敗する。ガチガチガチ、と奥歯が打ち合わされる音が響く。事前に川岸へ放り出しておいた安物のコートを肩の上からどうにか
「ハア……ハア……い、いかねえと……はやく……」
腕に力を込めようと試み――失敗する。
膝を曲げて立ち上がろうと試み――失敗する。
寒い。冷たい。痛い。苦しい。
「あきらめて、たまるか……!」
自分に言い聞かせ、惨めに草の
「あきらめて……たまるか……」
泥にまみれ、時間を掛けて土手を抜ける。残すは土手沿いの道路に続く、雑草に侵食された長い石階段。犬猫がそうするように
「あきらめ、て……」
ガクッ、と右膝が折れた。追い打ちを掛けるように風が横合いから身体を押し、石段の上で俺はとうとう力尽きる。
「……なんで……だよ……!」
どうして動かない。
どうして動けない。
こんなところで諦めるのか。
また諦めるのか。
もう諦めるのは嫌だったんじゃないのか。
彼女が――桃華が待っているのに。
たとえあの子が気付いてくれなくたって、それでもあの子の笑顔を守りたかったはずじゃないか。
あの子の悲しむ姿を見たくないから、俺は愚者に成ったんじゃないか。
愚者を演じ切ることすら出来ないのか、俺は。
だったら、いったいなんなんだ、俺は。
俺の
「…………っ!」
悔しさに目の奥だけが熱を帯びる。闇雲に右腕を前に突き出そうとして、やはり失敗。代わりに腕の中から、桃華のプレゼントが転がり落ちた。
俺が水に濡れた手で触ったせいか、綺麗な青色の包装紙が汚れてしまっている。箱も少し
仮に綺麗なままだったとしても、どうやってこれを桃華の手元まで届けるつもりだったんだ。その答えも出ないままだった。
「(なんだよ……結局、全部無駄だったってことじゃねえか)」
走って、探して、凍えて、汚れて――それらはすべて
誰も幸せになれない
「ちくしょうッ……!」
もう嫌だ。もう疲れた。ここで、眠ってしまおうか。
そうして、俺は
「――まったく、見ていられないわね」
それはどこか、いつも偉そうに命令してくる誰かの声に似ている気がして、「そんなはずがない」と否定する理性を無視し、俺はゆっくりと顔を上げた。
最初に視界に入ったのは、
後光のように白い輝きを
その姿は、どんな聖女などよりも美しく思えた。
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