第一七編 愚者と「偽物」
厨房を出た俺は、トレンチを片手に店内を歩く。向かう先は言うまでもない、店内最奥の七番テーブル。そこで静かに本を読んでいる、顔だけは超絶美人なお得意サマに対し、俺は作り慣れた営業スマイルとともに言い放った。
「どうも、お待たせしてスイヤセンね」
「…………」
接客業としてあるまじき言葉遣いに、しかし読書家のお嬢様はなにも言わない。それどころか、こちらに視線や意識を
「貴方のように低俗な虫けらの振る舞いなんてどうでもいいわ」という心の声――またの名を被害妄想――が脳裏に響いた気がして、苛立った俺はやや乱暴にお盆をテーブルに置いた。
「こちらがご注文のフルーツケーキとナッツのタルト、それから
「――最後のひとつは頼んだ覚えがないけれど」
コーヒーカップを差し出しながら言った俺に、ようやく
なんとなく悔しい気持ちになっていると、不意にお嬢様がパタンと本を閉じた。俺と話をする気になったのかと思ったら、どうやら単純に一冊を読み終えただけのようだ。
「面白かったかよ、〝純愛高校生物語〟は?」
聞くまでもないが、皮肉を込めてそう言ってやる。なにせコイツはラブレターをごみ箱に捨てるような女だ。そんなヤツが純粋な恋愛模様を
「そうね。なかなか楽しめたわ」
「でしょうね――って、は?」
想定外の答えに、俺は間抜けな声とともに疑問符を浮かべた。そんな俺をやはり無視して、サングラスとマスクを外す少女。いつも素顔を隠している彼女も、流石にそのまま飲食は出来ないようだ……って、そうじゃなくて。
「楽しめたわって……もしかしてその本、高校生同士の爽やかな純愛モノと見せかけといて、実際はドロドロの愛憎劇だったりするのか?」
「なにを言っているの? そんなわけないでしょう」
七海未来が馬鹿を見るような顔でこちらを見てきた。なんて腹立たしい女だ。いや、彼女は常に無表情なので、これもまた俺の被害妄想なのかもしれないが……九分九厘的中している気がしてならない。
それはさておき、俺は「じゃあ」と続けて口を
「やっぱりお前にとっちゃそんな小説、面白くもなんともないんじゃねえのか?」
「どうしてそう思うのかしら」
「だってお前、ラブレターを捨てるような女だろ。ってことはお前は恋愛とかそういうの、興味ないってことだろ?」
「随分短絡的な解釈をするのね。ラブレターを捨てたからといって、恋愛に興味がないとは限らないでしょう」
「ああ? なんだよそれ。じゃあお前、意外とそういう純愛に憧れてたりするのか?」
「いいえ。貴方の言うとおり、恋愛にはまったく興味がないけれど」
「ねえんじゃねえかよ」
しれっと肯定したお嬢様に半眼を向けると、彼女は閉じた本をテーブルに置いてから続ける。
「私に言わせれば、恋愛に
「無意味?」
決めつけるようなその言葉に、俺は
「そもそも人間が交際し、結婚するという行為に意味なんてないわ。自然界において『ヒト』という種の存続だけを考えるなら、生殖行為さえ出来ればいいはずでしょう」
「せ、生殖行為って……」
仮にも同い年の男子を相手に、よくそんな単語を堂々と口に出来るものだ。しかしその「意識のなさ」こそが、彼女が本心からそう思っていることを裏付けている。
「特定の誰かに恋をすることも、男女交際することも、婚約して一組のカップルになることも、すべては意味のない『贅沢』なのよ。このケーキやコーヒーと同じ、『
「……別にいいじゃねえか。全員がお前みたいに難しいこと考えて生きてるわけじゃないし、誰かを好きになるのは悪いことでもないだろ」
「そうね。あくまで
「…………」
俺は無言のままそっと
カッコ良くて、優しくて、頭が良くて、背が高くて――そんな相手を求め、選ぶのは生物として当然のことなんだ。
「――だから、私にとって恋愛は無意味なのよ」
「……え?」
言い切った七海未来に顔を上げる。彼女は恋愛小説の表紙に左手を添えると、わずかに表情を曇らせたような気がした。
「この小説の主人公は、ヒロインの内面的な魅力に
「……どういう意味だ?」
「この主人公のように、
「そ、そんなことねえだろ」
「そうかしら」
否定しようとした俺に、何物よりも美しい少女は言う。
「さっき貴方が
「!」
俺はなにも言い返すことが出来なかった。彼女の言葉は自信や傲慢に由来するものではない。そこにあるのは、ただただ純粋な虚無感だけだ。
「容姿でなければ、私の家柄に惹かれたのかしら。いずれにせよ、それは上面であって本質ではない。誰もが私のことを好意的な目で見てくる。私の
「…………」
「恋愛の話になると『人は見た目じゃない、中身だ』なんて綺麗事を口にする人がいるけれど、そんなものは幻想よ。人は、上面だけで簡単に
「…………」
「上面だけですべてが決まってしまうものに、私は意味を
彼女はきっと、これまでもたくさんのラブレターを送られてきたのだろう。美しく、可憐なその容姿に惹かれた者から、無数の恋慕を送りつけられてきたのだろう。ましてや彼女は、世界屈指のお嬢様だ。そのなかには、
だから彼女は、いつもサングラスとマスクを身に着けていたのだろうか。好意から、恋慕から我が身を守る鉄仮面として。もしも彼女が常に素顔を
けれど。
「――『偽物』なんかじゃ、ねえよ」
「?」
俺の喉から
「最初は
幼い俺も、あの子の可愛さに惹かれて好きになったんだと思うけど。
「でも、そこから『本物』になる恋だってあるだろ」
「…………」
七海未来が俺を見上げる。無表情な美少女の視線を、不思議と今は怖いと思わなかった。
「お前の言ったことが間違ってるとは思わない。内面を気にしない人がいるのも事実だと思う。でも、だからって恋愛が全部『偽物』だって片付けられちまうのは――俺は納得できない」
小説みたいに、内面に惹かれる恋は美しく見える。けれど、容姿に惹かれる恋だってひとつの恋愛の形だろう。無論、それを受け入れるか・受け入れられないかは個人の感性の問題になるが、「紛い物」だと――「偽物」だと決めつけ、ごみ箱に投げ捨てるのは間違っている。
それにどんな形であれ、好きになった人のことは、たとえ欠点であろうと受け入れられてしまうものだ。ましてやそれが美点であれば、より一層想いは強まる。
俺は桃華のことを完璧超人だと思ったことなど一度もない。たとえ欠点があっても、俺の想いに気付いてくれなくても、彼女が他の男に惚れてしまったって、俺はやっぱりあの子のことが好きだ。
「お前には分かってもらえないかもしれないけど……お前のことを上面で好きになって、そこから恋を始めたヤツだっているはずなんだよ」
本当はきっと、恋愛に「偽物」なんてないんだと思う。そしてそれは、七海未来にラブレターを送った彼らだって同じだ。
どんなきっかけで誰かのことを好きになるかは千差万別。その想いを伝える方法だって人それぞれだろう。ただひとつ言えることは、誰かを好きになるという気持ちは、すべて「本物」だということ。
そう思うからこそ、俺は名も知らぬ誰かのためにお嬢様に歯向かっている。
そう思うからこそ俺は、桃華の恋を応援している。
あの子の恋も「本物」で――叶えてあげたいと思ってしまったから。
「だから、少しでもいいから、お前のことを好きになった連中の気持ちを考えてやってほしい。お前には『偽物』に見えても、本人にとっては『本物』の気持ちだと思うから」
誰かに「好きだ」と伝えるのはいつだって怖い。勇気が要る。
勇気を振り絞って想いを伝えた人には報われてほしい。
「――頼む」
愚かな
「……呆れたわ。よく見ず知らずの他人のためにそこまで出来るものね」
瞑目したお嬢様は、コーヒーに口をつけながら言った。
「――本当に、大した度胸だわ」
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