第一四編 「お嬢様」

 一年生の下駄箱と通ずる昇降口から正門までは、一直線の長い舗装路となっている。道路左右の花壇には桜の木がたくさん植えられており、春に舞い踊る花びらとグラウンドから響く運動部の掛け声で彩られた学園風景はまさしく〝青春〟の二文字に尽きるだろう――もっとも今の季節は桃色の花びらはおろか、ついこの間まであんなに青々としていた若葉さえ色褪いろあせ、散り始めているのだが。

 そんなどこか寂しさのただよう一本道を半分ほど駆け抜けた先で、俺はなんとか七海ななみさんに追いつくことが出来た。そして慣れない全力疾走に息を切らしながらも、彼女の背中に向けて叫ぶ。


「七海さんッ!!」


 俺が上げた大声に、しかし七海さんは歩調を緩めることなく歩き続ける。それどころか、こちらの声に反応する素振りさえ見せない。


「お、おいッ!? 待ってくれって!?」


 再度呼び掛けるが、やはり少女は立ち止まらない。俺はさらに大きな声で「無視すんな!」と言いたくなる気持ちをこらえ、両足により一層の力を込めて七海さんの目の前へ飛び出した。


「――――」


 彼女は無言のまま立ち止まった。その真黒の瞳が、ようやく俺の存在を認識してくれたらしい。

 しかし、ただそれだけだ。絶世の美少女は道端みちばたの石ころでも見るかのような視線を向けてきたかと思えば、それ以上は時間の無駄だと言わんばかりに、俺の横を素通りしようと歩き出す。


「だ、だからッ――!」


 通せん坊のように両腕を広げて「待ってくれよ」と続けようとした俺は、少女の表情を見て喉を詰まらせる。


「――なにかしら」


 驚くほど冷たい声と表情。人間が人間を見る目ではない。心なき人間が虫けらを見る目だった。極寒の怖気おぞけに全身を支配され、俺は背筋を凍らせて硬直する。

 加えて彼女の美しさが、その恐怖をさらに助長していた。一切の熱量をびない声といい、喜怒哀楽を感じさせない無表情といい、さながら名画にえがかれた美女が口をいているかのようだ。脳みそが「非現実的な事象に出会でくわした」と認識したのか、今すぐこの場から逃げ出したい気持ちにられてしまう。

 それでもなんとか踏みとどまり、俺は震える声で言った。


「ど……どうして、手紙を捨てたりするんだ?」

「手紙……? なんのことかしら?」

「な、なんのことって……今さっきごみ箱に捨ててただろ、あんたの下駄箱に入れられてたラブレターを!?」


 俺が説明すると、七海さんは「……ああ、アレのこと」と、まるで遠い昔の出来事を振り返るかのように呟いてから続ける。


「アレ、ラブレターだったのね」

「……は?」


 俺は自分の耳を疑う。

 この女、今なんと言った?


「まさかあんた……ラブレターだとも知らずに、あの手紙を捨てたのか?」

「そうね」


 無表情のまま七海さんが即答する。「ラブレターを読まずに捨てる」という行為になんの後ろめたさも感じていない者の振る舞いだった。


「私は自分の下駄箱に入っていた紙屑かみくずを捨てただけ。一々内容にまで目を通しはしないわ」


〝アレ〟がラブレターだったと知らされてなお、あの手紙を「紙屑」と呼んだ少女に、俺は得体の知れない感覚におちいる。

 この女は間違いなく素でそう言った。嫌な人間を演じているわけでもなければ、もちろん〝恋文ラブレター〟がどういうものか理解出来ていないわけでもない。

 単純に、あのラブレターに一切の関心を示していない。

 本当に、ただの紙屑だとしか思っていない。


「話はそれだけかしら」

「そ……それだけ、って……」


 感情が追いつかない俺のかすれた声も無視して、七海さんは何事もなかったかのように門のほうへと歩いていく。俺はその背中を振り返ることさえ出来なかった。

 人から向けられた好意をなんとも思わないだけならまだいい。送られたすべてのラブレターを大切にしろとか真摯にこたえろとか、そんな無茶を言うつもりもなかった。

 ただ、無下むげに扱われたくなかっただけ。誰かの恋慕が込もった手紙を、あんなところに無造作に捨てられたくなかっただけ。

 俺なんかと違って勇気を出し、ラブレターを送った人の想いを無下にしてほしくなかっただけ。それだけだったのに。


「おかしいだろ、こんなの……!」


 拳を強く握り固める。

 あの女はラブレターのことを「紙屑」と言った。ごみ箱に捨てたことを「それだけ」で済ませた。誰かが懸命に記した恋文が、彼女の目にはそこらの紙切れと変わらず映っている。

 もし俺が必死に書いたラブレターを桃華ももかに捨てられてしまったら。「紙屑」だと言われてしまったら。想像しただけで、心臓を握り潰される思いだった。

 無論、「想いは必ず叶う」なんて思っちゃいない。想うだけで恋が成就するのなら、俺はとっくに桃華と結ばれている。でも、それでも――!


「ッ!」


 俺は再び走り出していた。言葉にしがたい感情をバネに地面を蹴り、少女の背中を追いかける。

 一本道を抜けて学校の正門を飛び出し、あたりを見回す俺。だがそこには既に七海未来の影はない。代わりにあったのは見るからに高級そうな一台の車と、その後部座席の扉を丁重ていちょうに閉じる女性の姿だった。

 俺に気付いたのか、女性がこちらを振り向く。そして仕立ての良いスーツを見事に着こなすその人は、柔らかさと怜悧れいりさが混じったような声色で言った。


「――当家のお嬢様に、なにか御用でしょうか?」

「は? お、お嬢様?」


 耳慣れない単語に俺が思わず聞き返すと、スーツの女性は「はい」と小さく首肯する。


「七海グループ代表・七海幸三郎こうざぶろう様のご息女にして我があるじ、七海未来お嬢様になにか御用でしょうか?」


〝七海グループ〟――それは、おそらく今この国で並び立つもののない、世界でも有数の企業グループの名だ。まだ高校一年生の俺でも将来の就職先には選ばない――もとい、超が三つも四つも付くような一流大企業集団。

 そんなとんでもないグループの、代表トップの、息女むすめ……?


「――本郷ほんごう。早く車を出しなさい」

「! 申し訳ありません、お嬢様」


 車の中から少しくぐもった七海未来の声が聞こえた。車窓から内部なかを窺うことこそ出来ないが、やはり彼女はこの中にいるらしい。

 そしてそんな少女の言葉こそ最優先事項だと言わんばかりに、本郷と呼ばれたスーツの女性も素早く運転席に乗り込む。


「あっ、ちょっ……!」


 呆然としていた俺がハッとして呼び止めようとするがもう遅い。意味もなく伸ばした右手は、むなしくくうを掴むばかり。


「な……なんなんだ、アイツは……」


 一人残された俺には、去っていく高級車を見送ることしか許されなかった。

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