第一四編 「お嬢様」
一年生の下駄箱と通ずる昇降口から正門までは、一直線の長い舗装路となっている。道路左右の花壇には桜の木がたくさん植えられており、春に舞い踊る花びらとグラウンドから響く運動部の掛け声で彩られた学園風景はまさしく〝青春〟の二文字に尽きるだろう――もっとも今の季節は桃色の花びらはおろか、ついこの間まであんなに青々としていた若葉さえ
そんなどこか寂しさの
「七海さんッ!!」
俺が上げた大声に、しかし七海さんは歩調を緩めることなく歩き続ける。それどころか、こちらの声に反応する素振りさえ見せない。
「お、おいッ!? 待ってくれって!?」
再度呼び掛けるが、やはり少女は立ち止まらない。俺はさらに大きな声で「無視すんな!」と言いたくなる気持ちを
「――――」
彼女は無言のまま立ち止まった。その真黒の瞳が、ようやく俺の存在を認識してくれたらしい。
しかし、ただそれだけだ。絶世の美少女は
「だ、だからッ――!」
通せん坊のように両腕を広げて「待ってくれよ」と続けようとした俺は、少女の表情を見て喉を詰まらせる。
「――なにかしら」
驚くほど冷たい声と表情。人間が人間を見る目ではない。心なき人間が虫けらを見る目だった。極寒の
加えて彼女の美しさが、その恐怖をさらに助長していた。一切の熱量を
それでもなんとか踏み
「ど……どうして、手紙を捨てたりするんだ?」
「手紙……? なんのことかしら?」
「な、なんのことって……今さっきごみ箱に捨ててただろ、あんたの下駄箱に入れられてたラブレターを!?」
俺が説明すると、七海さんは「……ああ、アレのこと」と、まるで遠い昔の出来事を振り返るかのように呟いてから続ける。
「アレ、ラブレターだったのね」
「……は?」
俺は自分の耳を疑う。
この女、今なんと言った?
「まさかあんた……ラブレターだとも知らずに、あの手紙を捨てたのか?」
「そうね」
無表情のまま七海さんが即答する。「ラブレターを読まずに捨てる」という行為になんの後ろめたさも感じていない者の振る舞いだった。
「私は自分の下駄箱に入っていた
〝アレ〟がラブレターだったと知らされてなお、あの手紙を「紙屑」と呼んだ少女に、俺は得体の知れない感覚に
この女は間違いなく素でそう言った。嫌な人間を演じているわけでもなければ、もちろん〝
単純に、あのラブレターに一切の関心を示していない。
本当に、ただの紙屑だとしか思っていない。
「話はそれだけかしら」
「そ……それだけ、って……」
感情が追いつかない俺の
人から向けられた好意をなんとも思わないだけならまだいい。送られたすべてのラブレターを大切にしろとか真摯に
ただ、
俺なんかと違って勇気を出し、ラブレターを送った人の想いを無下にしてほしくなかっただけ。それだけだったのに。
「おかしいだろ、こんなの……!」
拳を強く握り固める。
あの女はラブレターのことを「紙屑」と言った。ごみ箱に捨てたことを「それだけ」で済ませた。誰かが懸命に記した恋文が、彼女の目にはそこらの紙切れと変わらず映っている。
もし俺が必死に書いたラブレターを
無論、「想いは必ず叶う」なんて思っちゃいない。想うだけで恋が成就するのなら、俺はとっくに桃華と結ばれている。でも、それでも――!
「ッ!」
俺は再び走り出していた。言葉にし
一本道を抜けて学校の正門を飛び出し、あたりを見回す俺。だがそこには既に七海未来の影はない。代わりにあったのは見るからに高級そうな一台の車と、その後部座席の扉を
俺に気付いたのか、女性がこちらを振り向く。そして仕立ての良いスーツを見事に着こなすその人は、柔らかさと
「――当家のお嬢様に、なにか御用でしょうか?」
「は? お、お嬢様?」
耳慣れない単語に俺が思わず聞き返すと、スーツの女性は「はい」と小さく首肯する。
「七海グループ代表・七海
〝七海グループ〟――それは、おそらく今この国で並び立つもののない、世界でも有数の企業グループの名だ。まだ高校一年生の俺でも将来の就職先には選ばない――もとい選べない、超が三つも四つも付くような一流大企業集団。
そんなとんでもないグループの、
「――
「! 申し訳ありません、お嬢様」
車の中から少しくぐもった七海未来の声が聞こえた。車窓から
そしてそんな少女の言葉こそ最優先事項だと言わんばかりに、本郷と呼ばれたスーツの女性も素早く運転席に乗り込む。
「あっ、ちょっ……!」
呆然としていた俺がハッとして呼び止めようとするがもう遅い。意味もなく伸ばした右手は、
「な……なんなんだ、アイツは……」
一人残された俺には、去っていく高級車を見送ることしか許されなかった。
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