第八編 幕が開ける

悠真ゆうまゆうま! ほら、前のほうの席、二つだけいてるよ! 急いでいそいで!」

「あいあい」


 あっというにその日はやって来た。金曜日、放課を告げるチャイムとほぼ同時にうちの教室まで迎えに来た幼馴染みに背中をグイグイ押されながら、俺は第二体育館へ足を踏み入れる。

 桃華ももかは今日の演劇がよほど楽しみなのか、先ほどからずっとそわそわしっぱなしだ。そんなに焦らなくても、体育館は逃げたりしない――


「(――とも言い切れねえな、これは……)」


 第二体育館の中を見回し、わずかに頬をひきつらせる。 いや、もちろん第二体育館にニョキッと足がえて逃げ出したわけではない。ただ、館内に集中しつつある人の群れに引いているだけだ。


「(すげえ人数……もしかして、全校生徒の半分くらい来るんじゃねえか?)」


 並べられている椅子の数より、体育館に集まっている生徒数のほうが明らかに多い。放課後すぐに来てこのさまなら、演劇が始まる頃には超満員になるのではなかろうか。この第二体育館は第一体育館と比べて三分の一ほどの大きさしかないので、もし本当に全校生徒の半分がここに来るとすれば、相当数の立ち見客が出てしまうことだろう。


「ふー、なんとかいい席に座れてよかったね! 以前まえに行った時は一番後ろで立ち見だったから、急いで来て正解だったよ!」

「(あ、本当に立ち見客とか出るやつなんだ……?)」


 道理で、桃華がせかせかしていたわけだ。俺たちが話している間にも、前後左右の座席が次々と観客で埋め尽くされていく。所詮は素人劇だろうなどとあなどっていたが、この人気ぶりからすると、存外クオリティーが高いのかもしれない。


「(つっても、観客の大半は久世くせ目当てで来てるんだろうけど)」


 冷めた目でもう一度、周囲の生徒たちに意識を向ける。集まっている観客の七割は女子生徒だ。つまり観客たちの過半数は、今年入部したばかりの一年生でありながら主役に抜擢ばってきされているというあのイケメン野郎――久世真太郎しんたろうの姿見たさで来ているといっても過言ではないだろう。


 今、俺の隣にいる女の子だってなのだから。


「えへへ、楽しみだね、悠真っ!」


 嬉しそうに、幼馴染みの少女は笑う。ヒトの気も知らずに、舞台の幕が開けるその瞬間を今か今かと待ちわびている。

 その笑顔は小学生の頃、遠足の前日に浮かべていた表情と変わらないように見える。中学生の頃、夏休み前に浮かべていた表情と変わらないように見える。


「(でも……きっともう、違うんだよな)」


 彼女はもう、俺と一緒に遊んでいたあの頃の少女ではない。色恋沙汰とはまるで無縁だと思っていた頃の幼馴染みではない。そうなんだろう?


「あっ、見てみて悠真! あそこに立ってるの、やよいちゃんだよ!」

「!」


 嬉しそうに遠くのほうを指差す桃華に釣られて見れば、たしかに舞台袖に通じる備品庫の扉前に、桃華の親友にして茶髪ピアスのギャル系幼馴染み・金山かねやまやよいが立っている。彼女も演劇部所属だと聞いたが、学校指定の制服を着たままであるところを見ると、演者ではなく裏方担当なのだろうか。


「やよいちゃん、誰かと話してるみたいだね。あれは……ぁっ」


 に反応し、桃華が突然黙り込む。それに気が付いたわけでもないだろうが、王子様の衣装をまとう長身のは不意にくるりと振り返ったかと思えば、パッと表情を明るくさせてこちらへ歩み寄ってきた。


小野おのくん! よかった、来てくれたんだね! あんなこと言ってたから、来てくれないのかと思ってたよ!」


 ソイツ――本日の主役こと久世真太郎に話し掛けられ、必然的に周囲の生徒たちから視線の集中砲火を食らう。この男には今日、俺が演劇を観に来るとは伝えていなかったことが裏目に出てしまったらしい。殊更ことさら強烈に感じる真隣からの視線をけつつ、俺はイケメン野郎に「うるせえな」と返した。


「俺だって、別に来たくて観に来たわけじゃねえよ」

「ふふ、そうなのかい? だけど、なにも僕に内緒で来なくたっていいのに。言っておいてくれたら、先に席を取っておくことも出来たんだよ?」

「おいやめろ。俺が『本当は久世の演劇を観に行きたかったけど、素直になれないからこっそりバレないように来たヤツ』であるかのように言うな。俺はコイツの付き添いで来ただけだっつの」

「こいつ? あっ、君はたしか、この間金山さんと一緒に喫茶店に来てた……」


 俺が親指で差した先へ目を向けた久世が、桃華の存在に気付いて呟きをこぼす。途端にうちの幼馴染みは「ふぁいっ!?」と声を上げて背筋せすじを伸ばした。

 ……ああ、しまった。


「たしか……桐山きりやま桃華さん、だったよね?」

「!?!?!? わ、私の名前、覚えてっ……!?」

「もちろん。君も劇を観に来てくれたんだね。どうもありがとう。楽しんでいってくれると嬉しいよ」

「は、はいっ! こちらこそっ!?」


「(……なにやってんだ、俺は)」


 みすみす桃華と久世が話すきっかけを作るなんて。これではより一層、桃華がこの男にのめり込んでしまうではないか。

 より一層――胸の痛みが強まってしまうではないか。


「おーい、王子様ー!? そろそろ集合だぞー!」

「おっと、部長が呼んでる。それじゃあ二人とも、またね」

「は、はいっ!」

「…………」


 演劇の世界へと戻っていく「王子様」。その背中をじっと見つめる俺の幼馴染みヒロインの横顔は、やはり俺が目にしたことのないもので。

 客席側の照明が次第に暗くなっていく。満員御礼の舞台が幕を開けようとしている。


 物語が、始まろうとしている。

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