第五編 意思と思考

小野おのくん、ちょっとメニューのことで質問があるんだけど……小野くん? どうかしたのかい?」

「……別に」


 メニュー表を片手に話し掛けてきた久世くせに、俺は愛想悪くそう返した。店の外から二人分の視線が背中にそそがれている気がしたが、意識しないようにつとめる。

 どうせ彼女たちだって、すぐまたこの男に視線を戻すだろう。


「? 僕の顔になにか付いてるかな?」

「……ああ。ひたいのところに油性マジックで『肉』って書いてある」

「いや絶対嘘だよね!? どうしてそんなバレバレの嘘をつくんだい!?」

「嘘じゃねえよ。見てみろ、あそこのテーブル。手叩いて爆笑してる女の子たちがいるだろ? アレ、お前の顔見て笑ってるんだぜ」

「そうなの!? そ、そんな、どうして今まで教えてくれなかったんだい、小野くん! 一色いっしき店長も、なにも指摘してくれなかったし……!」

「悪かったな、教えてやれなくて……ほら、鏡あるから使えよ」

「あ、ありがとう……って、なにも書いてないじゃないか!?」

「当たり前だろ。仮にも客商売なんだから、顔に変な落書きされてるヤツをそのまま働かせるわけがねえ」

清々すがすがしいほど悪びれもしないね!?」


 雑な嘘を一瞬信じた久世から鏡を受け取り、元あった場所へ戻す。意外にもノリ良く、そして切れのあるツッコミぶりだった。


「というかあの女子たち、お前の知り合いだろ?」

「あ、うん。クラスは違うけど、僕たちと同じ一年生だよ」

「じゃあちょっと注意してこいよ。あいつらがあんまりうるさいから、あそこに座ってた常連のお客さんが帰っちまったんだ」

「ええっ!? そ、そうなのかい!?」


 七番テーブルを指差して言った俺に、驚きの声を発するイケメン野郎。まあコイツは今日がアルバイト初日なので、この店本来の姿――平日は閑古鳥かんこどりが大合唱――を知らないのも無理はない。


「……ごめん、ちょっと行ってくるね」

「え? お、おいっ?」


 客の消えたテーブルをしばらく見つめていたかと思えば、スタスタと歩いていく久世の背中を見て動揺の声を発する。彼が向かった先はもちろん、あの騒がしい女子生徒たちの席だ。


「(まさか、本当に注意する気か?)」


 俺としては半分無茶振りをしたつもりだったので、本気で行くとは思ってもみなかった。

 言うまでもないことだが、客相手に「うるさいから静かにしろ」とはなかなか言いづらい。〝甘色あまいろ〟は落ち着いたお客が多いのであまりそういう機会はないものの、それでも時折やって来るお喋り好きなマダムたちの扱いには困るものだ。下手に注意すると、ヘソを曲げて厄介なイチャモンをつけてきたりするしな。

 内心ハラハラしながら女子生徒たちのほうへ向かった久世の様子を観察していると、彼は最初に優雅な一礼をしたあと、彼女たちとなにやら談笑し始めた。そして一分足らずの会話ののちにもう一度一礼したかと思えば、そのままこちらへスタスタと戻ってくる。


「お待たせ。たぶんこれで彼女あのこたちも、もう騒がしくはしないと思うよ」

「お、おお……ちなみになんて言ったんだ?」


 見てみると、たしかに女子生徒たちはすっかり静かになったようだ。さらには居住いずまいもキッチリただし、お行儀よく椅子に座っている。かといって、露骨に黙り込んでしまっているわけでもない。周りの迷惑にならない適切なボリュームで、先ほどまでと同じようにお喋りを楽しんでいる。


「大したことは言ってないよ。ただ水をぐついでに、『喫茶店の落ち着いた雰囲気を楽しんでほしい』って伝えただけさ」

「えっ、それだけかよ?」


 たったそれだけで、年頃の女子生徒たちが静かになるものなのか? 疑問を顔に浮かべる俺に、久世は頷いて返した。


「彼女たちにも意思と思考があるからね。『ここは落ち着いた雰囲気を楽しむ場所なんだ』と伝えれば、自然とそれに合わせた楽しみ方をしてくれるよ。あの子たちだって場の空気を壊したり、他人ひとに迷惑を掛けるために騒いでたわけじゃないんだから」

「……!」


 つまり「うるさいから静かにしろ」と行動をするのではなく、「落ち着いた雰囲気を楽しんでくれ」としたのか。初めての店に来て浮かれている女子生徒たちに、この店本来の楽しみ方を伝えたわけだ。

 久世が今言った通り、彼女たちはわざと周囲に迷惑を掛けようと騒いでいたわけではない。浮かれてはしゃいでいた結果、迷惑になっていただけのはずだ。だから分別ふんべつのつく人間であれば、一々注意などせずとも自制してくれる、と。


「(『意思と思考』……か)」


 そうだ。人は皆、いろんなことを考えて生きている。自ら思考し、行動を選択する能力を生まれながらにそなえている。

 言い換えれば、わざわざ無意味なことをする人間はそうそういない。主観的な善悪や正否の判断に個人差はあれど、行動ひとつひとつには意思があり、思考が宿やどる。

 楽しいからお喋りするし、美味しいからケーキを食べる。騒がしいから席を離れるし、イチャモンをつけられたくないから下手な注意はしない。

 そして――


「ご、ごめんくださいっ!」

「! はい、いらっしゃいませ!」


 ――好きな人がいるから会いに行く。

 入店してきた幼馴染みの〝意思〟と〝思考〟。爽やかに出迎えるイケメン野郎の陰で、俺はそんなことを考えていた。

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