序幕
第一編 初恋の終わり
まだ小学生にもなっていないガキの頃から、ずっと好きだった女の子がいる。名前は
関わるようになったきっかけは覚えていない。というか、好きになった理由さえ。
物心がつく時分にはあの子のことが好きだった。理由や理屈なんてない。ただ家が近所で親同士の仲も良く、幼稚園に入る前からよく一緒に遊んでいたらしいから、その過程のどこかで恋に落ちたんだと思う。ガキの初恋エピソードなんて、案外そんなもんだろう?
俺と桃華は特別に親しかったわけではない。本当にありふれた、ごくごく普通の幼馴染み。だから小さい頃はしょっちゅう一緒にいたけれど、年齢を重ね、関わる人の数が増えていくにつれて、俺たちが触れ合う時間は減っていった。
容姿も性格もいい桃華は、今も昔も人気者だ。アイドル的存在でこそなかったかもしれないが、クラスメイトとは男女の分け隔てなく仲良くできて、皆から好かれていたように思う。
対する俺は地味で平凡。勉強もスポーツも得意じゃないし、他に自慢できるような特技があるわけでもない。かといって劣等生扱いされるほどでもない。漫画のキャラに例えるとすれば、教室の端っこに描写される〝モブB〟。
普通に人気者の桃華と、普通に地味な俺。子どもながらに存在するたしかな格差は、俺たちを疎遠にする理由として十分だった。
一方で、俺の桃華に対する想いは年齢を重ねるごとに増していった。出会ってから一年経っても二年経っても、話す回数が減っていっても、俺の初恋が風化することはなかった。
そう、桃華への恋心を自覚したその日以来約一〇年間、俺はずっと彼女に惚れ続けている。よく言えば〝一途な恋〟だろうか。だがそれは、裏を返せば〝何年経っても実らぬ恋〟である。
ただ一〇年間、一人の女の子を想い続けただけ。俺は桃華に対して一途だったが、それ以上の何者にもなれなかった。
勇気を出して告白すれば、なにか変わっていただろうか。
成功すればあの子の恋人になれる。そんな妄想なら何度も繰り返したものの、実行に移すことはなかった。怖かったから。「もし失敗してしまったら」。「今よりももっと距離ができてしまったら」。その恐怖は、「彼女の特別になりたい」という願望を塗り潰して余りある。
そしてそんな臆病な思考は、一〇年経った今――つまり高校一年生現在の俺の中でも変化していない。
「(……こんな冴えないヤツが告白したところで、OKをもらえるわけがないしな)」
アルバイト先のロッカールームに備え付けられた全身鏡。そこに映し出されているのは、学校指定の制服の上に深緑色のエプロンを身につけた男子高校生――すなわち俺、小野悠真の姿だ。
一七五に届かない背丈、見るからにインドア系の細っこい身体。顔だちはお世辞にも美形じゃないし、髪型を格好よくアレンジしているわけでもない。
俺は人間の本質は中身だと思うが、じゃあこんなヤツがあの可愛い幼馴染みと並び立つに相応しいかと問われれば自分でも「NO」だった。
「(せっかく桃華と同じ高校に入れたんだから、もっと自分を磨く努力とかすりゃいいのに)」
着替え終わり、店のほうへ向かいながら虚しく自分に言ってみる。ちなみにここは学校と自宅の中間に位置する喫茶店だ。「喫茶店バイトってなんか格好いい」という舐め腐った理由で、今年の春から働いている。
事務作業をしていた店長に挨拶をしてから、キッチンを抜けて店内へ。うちの喫茶店は基本的に平日の客入りが悪いのだが……。
「(おっ? 珍しいな、学生客が来てる)」
見れば、窓際のテーブル席に制服姿の女子高生が二人、向かい合って腰掛けていた。しかも俺が通っている高校の制服だ。うちは高校生が放課後ふらりと立ち寄るような店ではないので、俺は物珍しさからついジッと見つめてしまい――そして気付く。
「も……桃華?」
「えっ?」
俺の声に、一人の少女がこちらを振り向いた。すぐに「あ、しまった」と後悔するが、もちろんもう遅い。
その少女は俺の姿を認めて目を丸くしたかと思えば、ぱっと明るい笑顔を咲かせて言った。
「あれっ、悠真!? えっ、なになに、どうしたのその格好!? もしかして、このお店でバイトしてるの!?」
「お……おう、まあな」
珍しいものを見つけた子どものように駆け寄ってくる少女に対し、若干目を逸らしつつどうにかそれだけ返す俺。
この少女こそ、俺の幼馴染みにして初恋の相手・桐山桃華だ。彼女は俺の素っ気ない反応を気にした素振りもみせず、「へーっ、まったく知らなかったよ!」と無邪気に笑う。
「そっかー、部活やってないみたいだったから放課後どうしてるのかなーって思ってたけど、バイトしてたんだねえ。いつから働いてるの?」
「……半年くらい前から」
「半年……ってことは、高校に入ってすぐ始めたんだ? すごいね! それじゃあもう結構お金も貯まってるんじゃない?」
「まあ、ぼちぼちな」
「あははっ、それお金持ってる子が言うセリフじゃん! いいなあ。私、高校生になってからお小遣いが足りなくなること増えちゃったから羨ましいよ。しかも喫茶店でアルバイトってなんかオシャレでカッコイイし!」
いつぞやの自分と似たようなことを言う幼馴染み。「カッコイイ」という単語に思わず喜んでしまいそうになるが、どうにか
「(……変わらねえな、こいつ)」
あの頃、疎遠になる前と同じ笑顔で話す桃華に、俺は安堵にも似た感覚を覚える。
いつもそうなのだ。関わる機会が激減した今でも、廊下ですれ違う俺に気付けばこんな風に声を掛けてくれる。かつてと変わらぬ調子で俺の名を呼ぶ。「疎遠になった」だなんて、俺の勘違いだと思わされるような笑顔で。
だからこそ俺は、一〇年間もこの子のことを……――
「? 悠真、どうかした? 私の顔じっと見て」
「! い、いや別にっ!? そ、それよりお前こそどうしたんだよ。小遣い足りないとか言っといて、放課後に寄り道か?」
「あ、あ~……それはね……」
「私が誘ったんだよ」
「あ? ……げっ!?」
横から割って入ってきた声に顔を向けた俺は、そのまま露骨な
桃華の対面席で片肘をついていたその声の主は、染めた髪と耳のピアスが目立つギャル。俺のことを興味なさげに見上げているそいつは、テーブルに開いたメニュー表にコツンと指先を落として言った。
「『げっ』ってなんだよ。幼馴染みに対するリアクションじゃないでしょ」
「
このギャルは金山やよい。俺や桃華と同じ住宅街で生まれ育った、まあ一応幼馴染みに分類される女だ。
もっとも、昔はよく一緒に遊んだ桃華とは違い、俺と金山は控えめに言っても親しい間柄ではない。彼女はガキの頃から女子のリーダー的存在で、俺からすればどうにも苦手意識が抜けない相手だった。
「小野が喫茶店バイトとか、なんか似合わないな」
「いきなり失礼なヤツだな……」
「そうだよ、やよいちゃん。エプロン姿、よく似合ってるじゃない。ね、悠真?」
「お、おう、そうか?」
「はいはい。じゃあさっさと注文とってくれる? 『店員さん』」
わざとらしく言った金山に舌打ちしつつ、俺は「へいへい」とエプロンから伝票ホルダーを取り出す。
そして飲み物と簡単なデザートを注文した二人に形式上の礼を残し、一旦厨房のほうへと戻った。
「店長。二番テーブルの注文、ここ貼っときますね」
「あいよー。あ、小野っち。こっちの品、七番さんに持ってってあげてくれ」
「あーい」
キッチンでは店長が別の客の注文品を用意しているところだった。俺はホワイトボードに注文伝票を貼り付けてから商品の載った盆を受け取り、再び
「(よく似合ってる、か……)」
たった今桃華に言われたことを
厨房を出た俺は、常連客が待つ七番テーブルへ向かう最中、チラッと桃華と金山が座る席へ意識を向けた。
「あっ、出てきたよ」
「へえ、生意気にもウェイターっぽいじゃん。お盆にケーキなんて載せちゃって」
……なにやら、働いている様子をニコニコニヤニヤ見守られている気配がする。というかなにが「生意気」だ。俺が普通に働く様を、さも分不相応であるかのように表現するな。
幼馴染みズの視線を知らんぷりし、俺は店内最奥にある席の前に立つ。
「お待たせしました。こちら、ブラックコーヒーと季節のケーキセットになります」
俺がそう言うと、席に着いていた常連の女性は読んでいた本からわずかに顔を上げた。が、サングラスとマスクを着用しているせいで視線も表情も判然としない。そして俺の言葉に対してなにか返すわけでもなく、すぐに本の世界へ戻っていく。「ありがとう」くらい言えないものか。
とはいえ相手はお得意様だし、俺だって不必要に客と絡む趣味はない。「ごゆっくりどうぞ」の定型文と一礼を残し、さっさとその場を立ち去ることにする。
「『ごゆっくりどうぞ』だって。ウェイターっぽくてカッコイイね」
「ふーん。生意気にも手慣れた感じ出してるじゃん」
……なにやらまたしても、ニコニコニヤニヤ見られている気配がした。だからなにが「生意気」なんだ。「手慣れた感じ」なんか出してねえよ、普通にこの半年で手慣れたんだよ。
心中でツッコミながら、桃華の「カッコイイ」という言葉を胸に仕舞う俺。これはウェイターとしてもっと頑張らねば、なんて考えていたその時、金山が「そんなことよりさ」と声のトーンを変えた。
「桃華。あんた、これからどうするつもりなの?」
「えっ? 『どう』って?」
「決まってるでしょ。〝彼〟のこと」
「(? 〝彼〟?)」
気になる単語に、思わずその場で立ち止まる。
そして――続いて放たれた金山の言葉に、俺は後頭部をぶん殴られたと錯覚するほどの衝撃を受けた。
「
「……。……は?」
自分の口から出たとは信じたくないほど間抜けな声。
惚れた? 誰が?
……誰に?
俺は声以上に間抜けな顔を晒しながら、取り繕う余裕もないままに桃華のほうを見る。
一〇年間、ずっと好きだった幼馴染みの表情を。
「……うん。そう、だね」
そこにいたのは、幼少の頃からただの一度として見たことがない、〝女の顔〟をした彼女だった。
その瞬間、俺は自分の中でなにかが崩壊していく音を聞く。それは想像よりもずっと簡単に訪れた、終幕の合図。
――一〇年続いた俺の初恋が、終わりを迎えた瞬間だった。
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