インディアスにおける我が師についての簡潔な記憶

五色ひいらぎ

飢えた獣の騒ぐ夜

 その夜私は、けたたましい犬の鳴き声に起こされました。

 ガゥガゥと高く脅すいくつもの声に、ウゥーゥーと低くうなる声が交じっていました。飢えたような響きは母国スペインで聞いた狼にも似て、ひどく耳障りです。

 番兵が追い払ってくれることを期待し、私は寝直そうとしました。しかし夏のキューバ島は夜でも暑く、静かな中でもなかなか寝付けるものではありません。まして犬のうなり声が響く中では。

 蒸し暑い闇の中、私は何度か寝返りを打ちました。しかし獣どもの吠えあう声は収まる気配がありません。


 私は苛立ちました。

 番兵は何をやっているのでしょうか。このままでは、別棟でお休みの我が師――ラス・カサス司祭まで起こしてしまいかねません。ただでさえ、師はこのところ心労でおやつれ気味なのに。

 意を決し、私はオイルランプに火を入れて寝所の外へ出ました。


 外は満月でした。実りの近いトウモロコシ農場が月光に照らされ、淡い銀河には金銀の光の粒がまたたいています。創造主の造り給うた美しい夜空が、今日も広がっています。

 これほど月の明るい夜だから、野犬や狼が誘い出されてきたのか――考えかけて首を振りました。

 司祭は言っておられました。調査隊によれば、ここキューバ島に犬猫の仲間、すなわち他の獣を狩って喰らう獣はいなかったと。だとすれば、他の入植者の犬が迷い込んできたのでしょうか。


 番兵小屋に近づくにつれ、犬たちの声は大きく聞こえてきます。小屋の周りに、松明の灯りがいくつも見えてきました。

 嫌な予感がします。

 私は踵を返そうとしました。ですがその時、番兵小屋へ向かう灯りが二つ、目に入りました。

 ひとりは革鎧を着けた番兵です。もうひとりは……お休みのはずの師、ラス・カサス司祭。

 師だけを行かせ、私一人が厄介事を逃れるわけにはいきません。私は足を速め、番兵小屋に向かいました。


 すると、はたして。

 小屋の前には見慣れない五人の男たちがいました。めいめいが革鎧に身を包み、うち二人が猟犬を連れていました。大きな黒い犬二匹は目をぎらつかせ、ウゥーゥーと荒い息を漏らしています。目の前の者たちに対して、我々の番犬が大声で吠えたてていました。


「ペドロ様」


 番兵のひとりが、私に話しかけてきました。


「農場に賊が侵入したと、この者たちが主張しているのですが」

「おお、あなたがこちらの領主様ですか」


 五人のうち最も体格の良い男が、私に向かって一礼しました。土地の主は私ではなくラス・カサス司祭ですが、勘違いされたままなら師にご面倒もかけずにすむでしょう。私は黙って彼ら一同を見据えました。


「私共は、森に隠れた異教徒どもに報いを与えるべく、奴らを狩り出す活動をしております。ですが、あと一歩のところで取り逃がしてしまいましてな。犬に臭いを追わせたところ、こちらへたどり着いたのです」

「よろしければ、奴らの行方を調べさせていただけませんかな」


 最も小柄な男が、続いて一礼しました。


「こちらの主は司祭様だと伺いました。異教徒が敬虔なキリスト教徒に害を与えるなど、あってはならぬこと」

「どうかご許可を」


 五人がめいめい頭を下げます。

 どう言って追い払おうかと考えていると、背後から我が師の声がしました。


「出ていきなさい」


 とても険しい声でした。

 振り向けば、師の憂いと怒りに満ちたお顔がオイルランプの光に浮かび上がっています。

 師のご心労をまた増やしてしまった、もっと早く片付ければよかったと悔やむ私の前で、師は男たちを叱責しました。


「ここは私の土地です。私の土地でみだりに人の血を流すことは許しません」

「奴らは、罪のあるインディオですよ」


 大きな男が、口の端を歪めながら言いました。さきほどまでと打って変わった、残忍な笑いを浮かべています。


「私共の兵士が一人、あやつらに殺されました」

「キリスト教徒一人の血は、異教徒百人の血で贖われねばなりません。さきほどここに――」

「ここは私の寄託地エンコミエンダです。王国がなんのために我々へ土地を寄託しているか、入植者であれば当然知っていますね?」


 師の言葉に男たちは顔を見合わせ、不気味な笑いを浮かべながら互いに頷きました。


 次の瞬間、二匹の犬が急に駆け出しました。

 黒い影が、一目散に農場の端へ――インディオの労働者たちが寝泊まりする小屋へと走っていきます。


「おっと、手が滑ってしまいました」


 下卑た笑いを浮かべながら、最も大きな男が一礼しました。


「ご心配はいりません、私共が命令しなければあいつらは何もしませんよ。ただ――」


 師の顔は、月光の下でもわかるほどに白くなっていました。

 師は踵を返し、犬たちの後を追います。私もあわててついていきました。


「――異教徒には容赦しませんがね」


 男たちの声は、いやに悠然としていました。






 労働者たちの小屋の前で、二匹の黒犬は低くうなりながら粗末な木戸をにらみつけています。今にも飛びかからんばかりの眼光と、荒い鼻息はまるで飢えた狼のようです。事実、飢えているのかもしれません。


「中を改めさせてくださいませんか、司祭様。奴らがこの中にいるのは間違いありません」


 ゆっくりと歩いてきた男たちが、戸口で立ちつくす師へ向けて頭を下げます。


寄託エンコメンダールの条件は、私共も当然知っておりますよ。『先住民の教化と保護を条件に、その統治を委任する』……であれば司祭様、当然ながら」


 男たちのぎらついた目が、一斉に師に注がれました。


「教化を拒む先住民は保護に値しませんね。……こういたしましょう。ここにいる異教徒が改宗を受け入れるなら、それは保護されるべきあなた様の民です。ですがもし拒んだなら、罪ある異教徒を私共へ引き渡していただきたい」


 めちゃくちゃなことを言う者たちです。他人の寄託地へ押し入っておいて、己の言い分を一方的に押し付けてくるとは!

 ですが師匠は、五対の視線を身に浴びつつも力強く頷かれました。


「いいでしょう」


 師は、労働者小屋の扉に手をかけました。


「神の愛はすべての人へ平等に注がれるべきもの。必ずや彼らを、聖なる教えの下へ導きましょう」


 正直なところ、私は安心しました。

 異教徒とはいえ、自らの置かれた状況を判断する力くらいはあるはずです。改宗かさもなくば死、という状況にあって、異教の神になおも忠誠を誓う愚か者はいないでしょう。この奥にいるであろう者に、真っ当な判断力が残っていることを祈るばかりです。

 男たちが頭を下げました。入りますよ、と声をかけながら、師は労働者小屋の扉を開けました。

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