3.警察じゃない疑惑、偽証疑惑

 ここは病院の一室。

 ベッドの上で額に包帯を撒かれ、女性誌を読んでいるのは弥子である。

 自分の頭を打つという偽装工作。人間にはどうしても、恐怖と防衛本能がある。当然まずいことになるレベルの一撃には至らなかったが、それでも結構効いた。気絶は演技で装う予定だったが、グロッキーになっていたら勝手に済んだ。

 仮に平気だったとしても、頭部への一撃は脳の心配がある。医者からは絶対安静を言い渡された。

 なのでもしかしたら、こうやって体を起こしているのも怒られるかもしれない。

 被害者になることで容疑者から外れる計画、いくら確実性のためとは言え。さすがに代償がキツいと多少後悔する弥子であった。


「あいててて」


 頭蓋骨に問題はないと説明を受けている。他の部位より張っている頭部の皮膚は切れやすく、比例して血が出やすいだけなのも知っている。

 それでも気分的には、想定以上の負傷をしたテンションである。


 激萎え~、なんちゃって……。はぁ……。


 長年の独身生活で多くなった脳内独り言。長年生きてきたには似合わぬ痛々しい言葉を使っていると、


「梶谷さん」


 若い看護師が病室に入ってきた。


 可愛いなぁ。私も若い頃は可愛かったのになぁ。


 返事もせずに失ったものを数えていると、看護師さんは話を進めてしまう。


「警察の方がお見えになって、どうしてもって」

「はぁ」

「病院としては断ってるんですけど。本人の口から無理だって言ってもらえたら、向こうもさすがに」

「失礼しまぁす。どぉもぉ」

「あっ! このっ!」


 病院側の健闘虚しく、どうやら警察が乗り込んできてしまったようだ。

 ヘルメットを被った女が、引き戸を開けて隙間から顔を出している。


「今すぐ帰らせますから!」

「いいよいいよ。退屈で傷口が悪化しそうだったから。お通しして。退屈凌ぎにはなるでしょ」

「でも先生が安静に、と」


 看護師さんも仕事である。困った表情を浮かべている。


「ね、ちょっとだけ! 警察の方には協力しないと、ね!」

「うふふ。そう言っていただけると、私としても大変助かります」


 挟み撃ちでお願いされた看護師は少し悩んで、


「じゃあ少しだけですよ。もし先生が来て怒られたら即終了ですからね!」

「やった」

「お気遣い感謝いたします」


 お目溢ししてくれた。それを合図に、さっそくヘルメット女が病室へ入ってくる。続いて小男も。

 女は椅子に腰掛けると、人懐っこいというか距離感が近いというか。多少煽っているようなニヤニヤ顔を浮かべる。


「あの、千中さん。僕も座りたいんですが、椅子は」

「君のはないよ」

「そんな!」


 千中と呼ばれた女はそちらを見もしない。まるで小男が存在しないものかのよう。


「梶谷弥子さんですね」

「はい」

「私、警視庁捜査一課の千中高千穂と申します」

「自分は松実士郎です! あの、サインください!」


 別の空きベッドから椅子を勝手に持ってきた松実が、興奮気味の声を出す。


「いいよ」

「やったぁ!」


 彼が命の次に大事そうなメモ帳を差し出すのに、高千穂は少し驚いた顔をする。


「松実ちゃん、なに、なんなの。この人有名人なの?」

「千中さん知らないんですか!? 梶谷弥子さんと言ったら有名な小説家ですよ!? 先生! 『京極写楽きょうごくしゃらく』シリーズ、いつも初版で揃えてます!」

「本当? 嬉しいなぁ」


 弥子は書き慣れたサインをスラスラッと書いてやる。ボールペンは心なしかサインペンより書きやすいが、メモ帳は色紙より狭いのでトントン。


「それ、おもしろいの」


 腕組みしている高千穂に松実は吠える。


「先生の前で失礼な! おもしろいなんてもんじゃ済みませんよ! いいですか!? 梶谷先生の作品はですね! 代表作『京極写楽』を始めとして、登場人物のダメ人間加減がもう完璧なんです! 最高ですよ!?」

「なるほど、松実ちゃんは親近感があるわけだ」

「なんですって!?」

「ねぇ、あれ大体私の実体験なんだけど、ダメ人間って言った?」

「へっ!?」


 低い声で睨んで見せるが、怒ってはいない。すぐさま笑い掛けてやると、メモ帳を返す。

 松実も興奮したかと思えばビビり散らし、今はサインをもらってニヤけ顔。忙しい七面鳥である。ようやくうるさいのがおとなしくなったので、高千穂もようやく弥子の方へ向き直る。


「すいませんウチのにサインくださって」

「いえいえ」

「それにしても、こうも好意的に迎えていただけるとは。我々方々ほうぼうに顔を出しては、先ほどのナースさんみたいに嫌がられるのが常なので」

「そういうものですか」

「えぇ。なのにあなたは聴取にも乗り気でいてくださる」


 弥子は軽く胸を張る。


「これでも小説家だからね! 警察官とお話しした経験が、今後の執筆に役立つかもと構えておくんです。それが成功の秘訣」

「なぁるほどぉ! 感服です」


 しかし……、わけの分からない格好のヘルメット女に貧弱そうな小男。


 君ら警察官には見えないけどね


 とまでは弥子も口に出さなかった。

 そんな心の声は露知らず、高千穂は軽く身を乗り出してくる。


「ということでしたら遠慮なく。事件の時の状況をお聞きしたいのですが」

「いいよ」


 いつまでもサインをニヤニヤ眺めている松実の脇腹に、高千穂の肘が飛ぶ。彼は慌ててメモを取る体勢に入った。


「まず、お二人が発見されたのは開店時間より随分とまえですが」

「あぁ、それはね。親友だから、朝から入れてもらうことはよくあったんだよ」


 たまたまその日だけ朝から、というのも怪しいかもしれない。そういうことにしておく。


「なるほど。それは災難でしたねぇ。それで犯人に頭を殴られる羽目になったんですから。お察しします。犯人の方もさぞしたことでしょう。開店まえを狙ってきたのに、お客がいるんですから」


 高千穂は共感をアピールするよう首を大きく縦に振る。いちいち演技がかった女である。


「それでですね? ここからが大事なんですが。梶谷さんあなた、額を一発殴られています。つまり『犯人に正面から殴られている』ということになるんです。顔とか見ませんでしたか?」


 弥子は少し目線を上げて、何か思い出すフリをする。


「いやぁ? いろはちゃんが厨房に味噌汁の味見に行ったからさ。そっちに意識が取られてる時に、いきなり引き戸が開いたの。それで『あれ? 人が来る時間じゃないはずなのに』って。遅れて振り返ったところを殴られたから、正直なんにも。ごめんね、お役に立てなくて」


 一応リアル感のために、思ってもいないことをセリフとして挿入しておく。

 これぞ天才小説家の技、と自画自賛する。


「いえいえ、普通はそういうもんです。お気になさらないでください」


 向こうも騙されたか、宥めるように掌を向けてくる。


「こんな状況で体も気持ちも大変でしょうに。ご協力くださり誠にありがとうございました。お医者さんから怒られないうちに退散します。松実ちゃん、行こうか」

「はっ、はい!」

「椅子、ちゃんと戻しとくんだよ」

「はい!」


 松実はメモを取りながら慌てて立ち上がる。書くスピードが遅いようだ。なんだか全体的にのんやりしたバディである。

 なんだかチョロそうだな、と胸を撫で下ろしたところ。

 今まさに病室を出ようと高千穂が、ゆっくり振り返る。


「あ、そうだ。最後に一つ」

「何かな?」


 彼女は相変わらずニヤニヤしている。


「梶谷さんあなた、味噌汁のレシピご存知ですか?」


 あまりの突拍子もない質問に、弥子も少し固まってしまう。


「味噌汁? なんで?」

「いえ、現場に味噌汁があったので少しいただいたんです。それが非常に美味しかったので。親友のあなたがレシピを受け継いでいないものかと」


 ここまで牧歌的だと、このニヤつきもただ単に人がいいだけだな、ちょっと挑発的に見えるだけで。


 そんな気がしてきた弥子。


「あー……。味噌汁はねぇ」

「なんでしょう」

「味噌汁は煮干が決め手」

「なるほど、ありがとうございます。今度こそ失礼いたします」


 松実の方はと言うと、一応味噌汁のことまでメモを取っているらしい。


 ここまで間抜けそうな二人なら、どうしたって逮捕されることはないな。


 そう考えた彼女は、ダメ押しに親しみやすさと親友を殺された被害者アピールを添えておく。


「早く犯人捕まえてね」


 すると小男がガッツポーズ。


「ご安心ください! なんたってこの人は『捜査一課のアイルトン・セナ』ですから」

「セナ? F1レーサーの?」

「うふふ。自称したことは一度もないんですけどね」

「何それおもしろい。いつか小説で使おっと」

「勘弁してください。では梶谷さん、お大事に」

「どうもー」


 やっぱり馬鹿っぽいな。大丈夫だな。


 傷の治りも早くなる予感がした弥子であった。






 病院の廊下を歩く高千穂は、松実の方を振り向かずにボソッと呟く。


「あの梶谷さんって小説家、嘘ついてるねぇ」

「えっ? どこがですか?」


 またサインを眺めてニヤニヤしていた松実が、慌ててペンを探す。しかし『アイルトン・セナ』は彼の準備完了を待たない。


「梶谷さんは『朝から入れてもらうことはよくあった』って言ってた。なのに引き戸が開いたとき、『人が来る時間じゃないのに』って」

「そうですね」

「うふふ。でも通報したのは農家さん」

「つまり?」


 彼女はここでようやく、松実のほうへ振り返る。


「その農家さん、『大根を届けるのは午前中に。時間はまちまち』と言ってたんだよ? 梶谷さんが普段から朝お店に来ていたのなら、もちろんそのことを知ってるはずなんだ。なのに彼女、引き戸が開いたとき。来たのが農家さんの可能性も、彼が犯人である可能性も考慮していない。犯人の顔を覚えていないはずなのに」


 冴えない小男もようやくポンと手を打った。メモ帳がクシャリと歪む。


「あぁ! なるほど! だから『朝来ることはよくあった』っていうのは嘘なんだ!」

「そういうこと」

「でもなぜ、被害者がそんな嘘を? 根元さんを庇って? それとも今まで奇跡的に一度も会わなかったから、思いいたらなかったとか?」

「仕入れなんて大根だけじゃないんだから。何度も朝から来といて、全ての業者に一度も会わないのはないでしょ」

「確かに」

「ま、おいおい分かるでしょ」


 彼女は売店の方に目を取られている。

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