第34話 夢月の報告と母親会談

 蝉が鳴き始め日本に夏を伝える季節。夢月が真樋に別れを告げた後、久しぶりに真森家の玄関前に立つ姿があった。


 元々のこの家の住人であるその女は、家を出る時とは違い長い髪をバッサリと切りショートヘアになって帰ってきていた。


 表情は深刻そうで今にも世界が終わってしまうのではないかというもので、雰囲気からもその様子を漂わせていた。


 平日の昼間という事もあり、周辺には見知った人物の往来はほとんどない。


 恐らくはそういった日程を選んだのかもしれない。


 隣家の真道家の面々は当然出払っているし、今玄関に鍵を挿そうとしている本人の家族も大方出払っている。



 しかし、一人は在宅しているのを知っていた。


 今日外出しない事を確認しており、家にいて欲しい旨を伝えていたからである。


 ガチャっと鍵を挿す音と、さらに鍵を回転させサムターンが回る音が響く。


 もう一つガチャッという扉のヒンジの音がすると、その先には数か月前まで見知った玄関と廊下が目に入る。


 扉と鍵を閉めると、靴を並んで揃え前へと足を一歩進める。


 その一歩がとても重い事を心身共に実感として味わっていた。


(足取りが重い。進みたくない、けど進まないと。」




「た、ただいま。」


 絞り出したその声は元気のげの字も感じられないものだった。


 久しぶりに帰って来た我が家という感じは一切ない。


「おかえりなさい。」


 返事をしたのは母親である真森名月なつき。8月15日生まれで、秋の真ん中……太陽暦で中秋の意の日に生まれたため中秋の名月から名月と名付けられていた。


 なお、仲秋は陰暦8月全体を指す言葉のため、仲秋の名月とは言わないのである。


 名月は娘の沈んだ様子には気付いていながらも先に責める事はしない。


 夢月からの言葉を待っていた。



 なんでもない平日に家にいて欲しいと言われて、何もないはずがない。


 そして明るい表情をしていないのだから、それが良い報告のために来たとも思えない。


 社会人1年目の夏に仕事の上で相談に来るとしても、出世等の話ではなく辛いからもう辞めたいとか、ハラスメント等ブラックさに耐えられないとか、そういった相談だと思うのが妥当である。



 座ってちょっと待っててと名月は話し、自らは冷蔵庫へ行き冷えた麦茶とコップを二つ持ってリビングへと戻る。


 戻った名月が見たのは顔を下に向けた夢月の姿。



「黙ったままでは何もわからないよ。待ってるつもりだったけど、何があったの?」


 麦茶を注いだコップの周辺には大量の水滴が付着している。


 それだけでも夢月のだんまり状態が何分にも及んでいた事が想像出来る。




「真樋と別れた……」




「そう。」


 素っ気ないのではなく、そこから先の言葉を促すために相槌の意味で名月は短い言葉を発していた。



「仕事に慣れなくて、悩んで辛くてどうしようもない時手伝って教えてくれて、支えになってくれた先輩と……」



「ゴールデンウィーク前にそういう事しちゃって……ゴールデンウィークの後も……」



「そう。」


 再び「そうなのね。」という意味での相槌を打つ。



「それで……最近なんかおかしいなと思って検査したら……」


 そこで母子健康手帳を取り出して母親に見せる夢月。


 夢月は産婦人科で正式に調べていた。市販の妊娠検査薬などの誤りという線を捨てきれなかったからだ。


 しかし、結果は妊娠。実は真樋と行為をした数日後に検査をした際には陰性だった。


 会社の先輩とした数日後に異変を感じた時に検査をした際には陽性だった。


 それが夢月が子供の父親が会社の先輩だと決定付けた経緯である。


 若干お粗末な理屈ではあるが、知識の乏しい19歳では信じるには充分なのかもしれない。


 そして、真樋に別れの謝罪へと至ったのであった。



 夢月は母親である名月にも、真樋に説明した時と同じような内容でしか話していない。


 別れを切り出したあの日の男の態度だとか、普段の男の様子とか、職場での様子とかは話していない。


 お腹の中にいる子供の父親が、その会社の先輩の男だという事だけを事実として伝えた。




 パンッ


 左頬を叩いたのは名月。



「多分、真樋くんは夢月を責めてないよね。文句や恨み言の一つも言わずに夢月の言葉を受け入れたんじゃないかと思う。」


 もし真樋がその気になれば、自身の家族に全てを話し、真道家から何か言われてもおかしくはない。


 数日も経過して、何もないという事は、別れた事実はともかく詳細までは話していない事が理解出来る。


 学生時代は殴り合い罵り合いの喧嘩までした仲だ、夢月の不貞を知れば真森家に殴り込みにきているはずだと思っていた。



「だから、何も言えなかった真樋くんの代わりに勝手に私が叱責したと思って。それと……」


「不用意な性行為とか、不用意な避妊とか言いたい事は色々あるけど……」


 名月は夢月をそっと抱きしめる。



「それでも貴女は私達の娘なんだから、ここで突き放せるわけないじゃない。」


 頭を優しく撫でながら名月は夢月に言い聞かせる。


「こちらから真道家に何かを言う事はしないけど、もし言及された時は謝罪も慰謝料も全て二つ返事で受け入れるつもりだから。」


 それは若干卑怯ではあると自覚しながらも、真道家から何も言ってこない以上、事を荒げる事をする事もないというのが大人の意見である。


 家が隣である以上、今後も近所付き合いは当然ある。態々必要以上に周囲環境を悪化させるわけにはいかないのである。


 それは近隣の家からの冷たい視線や言葉なんてのも懸念しての事かもしれない。


 ここがそれぞれマイホームである以上、簡単に引っ越すという選択肢が取れないというのも現実的な話である。


「うっうっうえぇっ」


 名月の断崖絶壁の中で嗚咽を漏らして泣く夢月を、ぎゅっと抱きしめるのは母親故の抱擁。


 夢月のした事が真実虚偽は問わず、行ってしまった事には後戻りは出来ない。


 不貞にしても妊娠にしても、宿った命には罪はない。


 心に罪悪感を感じながらも、夢月は子供を、名月は孫を認めなければならない。



「生まれてくる子供には、せめて親のごたごたとは無関係な人生を過ごして欲しいわね。」


 恋愛のどろどろした環境を、胎内にいる子供にまで背負わせるわけにはいかない。


 そこは大人がどうにかして、何も関係のない世界で知らないまま育てる義務があると、名月は感じていた。



 弱ったところに手を出した相手の男に思わないところがないわけではないけれど、それでも夢月のお腹の中にいる子供の父親である以上は、最低限認めなければならない。


 子供の父親であるという事実と、夢月が相手の苗字になってしまう事実と。



「よく報告したよ。ただ、たらればだしもう遅いけど、もっと早く相談してくれたらとは思うよ。これでも私は貴女の親なんだから。」


 名月は夢月の頭と背中を擦りながら、小さな子供をあやすように諭した。


 





 夢月が実家を訪れてから数日。夏の甲子園が始まって世間が騒がしくなってきた頃。


 とある駅前のカフェの一席に、二人の女性がテーブルの向かい合わせに座って歓談していた。


 歓談というには雰囲気が明るいものではなかったが、周囲に異変を感じさせる程悪いものでもなかった。


「その件ね。うちの真樋が何も言わないんだから、私は何も聞かない。色々残念でがっかりして落胆したりはしたけど。」


 最初は何気ない同級生としての会話を続けていた二人。


 片方は真森名月、もう片方は真道真理愛、真樋や真都羽の母親である。


 話の流れでどうしても出てきてしまう子供の話。


 そうなるとその後に続くのは、真樋と夢月の話題である。


「ごめんなさいね。」


 頭を下げる名月に制止をかける真理愛。


「だからなづなづが謝る事じゃないんだって。酒煙草は相変わらず20歳からだけど、18歳は法律上もう大人よ?色恋沙汰も、良くも悪くも当人達の自由でしょ。NTRなんてラノベやネット小説とかドラマの中だけの世界にして欲しかったとは思うけどねぇ。」


 真理愛は一旦息を吐き、悟ったような穏やかな表情で言葉を続ける。


「真都羽や高校の同級生が結構気にしてくれていてね。色々誘って気落ちしないようにしてくれてるみたいだしね。」


 彼らには感謝していると伝えた。本来その友人達とも一緒にいた中には夢月もいたのだが。


「あんたが高校時代に描いたエロ同人漫画みたいな展開がさ、まさか身近な現実になるとは思わなかったけど。」


 グラスから抜き取ったストローの先を向けて、若干揶揄うように真理愛が高校時代の黒歴史を吐き出した。


「あれって原案は真理愛でしょ。私はそれを漫画にしただけだし。それにあれは幼馴染NTRものだけど最後は一緒になった純愛ものでもあったじゃん。」


 いつのまにか、会話は同級生同士のじゃれ合いへと変わっていた。


 高校を卒業した後に製作した、合同本の一冊。原作が真理愛で漫画が名月というものがいくつか存在する。


 その中に、幼馴染NTR本がいくつかあったのである。


「純愛って辞書で調べてみて?一途に思ってるだけって単純なモノじゃないから。」



 見返りを求めないピュアな愛、邪心のないひたむきな愛、その人のためならば自分の命を犠牲にしても構わないというような愛、などである。


 なお、たまに目にするプラトニックな愛は、主に肉体関係を伴わない愛を指す。


 18禁ゲームでは凌辱系が確立したために、その反対で一途な恋愛を純愛系として扱った節がある。


 そのせいで清らかっぽければなんでも純愛と分類されがちになっているだけであった。



「確かにNTRとはいえ、他に気を許したら純愛とは呼べないわね。せいぜい純愛系って派生が良い所だわ。」



「小説書いてるとね、それが例え官能であっても日本語に関しては結構シビアなのよ。それでも校正をもすり抜けて誤ったまま世に出たり、それに気付かないまま数十年が経過するなんて事もあるんだけど。」

 

 それから昔話に花を咲かせる。


 最初に注文していた飲み物が空になり、次の飲み物が空になった事に話は終盤へと差し掛かる。


「でもね、申し訳ないけど、夢月ちゃんの結婚式には参加出来ないよ。」


 親の友人枠なんてものが存在しない以上、ただの隣人というだけでは抑参加する資格のようなものは存在しない。


 それを踏まえた上で、真理愛は言った。応援は出来ないよ、という意味を込めていたのだ。


「相手からも一応挨拶にはきたけど、その時の様子だけだと普通の好青年って感じだったんだけどね。」


 少なくとも、ぱっと見でクズ印象は受けなかったという。


「人間はいくつもの皮を被ってるものよ。って親友の子供の旦那になる人を悪く言うのもどうかと思うけど。まぁ彼氏がいると知っててやったのかまでは知らないけどね。」


 夢月の両親はその辺りの詳細までは聞いていない。


 隣人であり、親友の子であり、ある意味家族のように過ごした真樋の事を考えると、細かくは聞き出す気にはなれなかったたのである。


「それにしても、私達の家系は19歳の年に何かないと気が済まないのかぇ。」


 真理愛も名月も19歳の年に妊娠しており出産まで経験をしている。


 名月の子である夢月もまた、19歳になる年に妊娠をした。


 この事実が何かを意味するとはとても思えないが、不思議な何かを感じずにはいられないようであった。


 そして、例の同人誌の中のキャラクターも19歳だった。

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