プロローグ(表ー2)「待った?」

 タクシーの影はないかと走りながら見渡すが、運は自分に味方していないようだった。それなら遊歩道を走った方が早い。


 川沿いの道は静かで、柵にもたれて川を見ている少女がぽつんと居るだけだった。少女のそばを駆け抜けた時、たった一度だけ、守れなかった約束を思い出す。


 *


 それは深夜の城内、青年の嘲るような笑い声と、少女の泣き声が響いている。


 大学三年生になったばかりの依人は、部屋の窓から広がる物語のような異界の街並みを見ていた。綺麗だ、依人はこんなに美しい風景を見たことがない。



「まーた現れたのか。一体どういうメカニズムなんだろうな」


 依人に声をかけたのは、この城に住む国王の息子、つまり王子だ。


「俺にも分からないさ。前来た時からかなり空いたけれど、元気そうで何よりだよ。子供の時みたいに、手合わせでもしてみるか?」


 相手は王子だが、顔馴染みである依人は、気軽に話しかける。


「いーや、ヨリトは強い。決着がつくとは思えないな。それに比べて」


 王子は言葉を切って、兄妹喧嘩の末に泣き出した王女を見下ろした。


「カナリア、お前は本っ当に弱いな。このまま何の力も目覚めずに、どうやってこの国が守れる?」



 この世界に来ると依人はいつも、夢の中にいるような気分になる。


 物語で出てくるような王子や姫が歩き、靴音が鳴り、息づかいが聞こえる。


 眠った時に、勝手に別の世界で目が覚める現象を、依人は《異界渡り》と呼んでいた。《異界渡り》は子供の頃から度々行われ、王子と姫と3人で何度も遊んできた。


「私には、何の力もないけれど、私にだってできることがあるはずだわ」


 王女は、床に倒れたまま王子を見返した。


「……勝手にすればいいさ、そんなお前を守ってくれる奴なんか、いないだろうがね」


 この兄貴は、持たざる者の気持ちが分からないのだろう。いくら家族とはいえ、いや、家族だからこそカナリアを大切にしなければいけないだろうに。


「それなら、俺がカナリアを守ってやる。約束するよ」


 依人は、自分で言葉を噛み締めるように、王女に向かって微笑んだ。



 それから、1ヶ月後、気がつくとまた依人は異界の城にいた。そこで聞いたのは、カナリア王女の訃報だった。


 *


 ……また、約束を破ることになってしまった。


 彼女との待ち合わせ時間はとうに過ぎているだろう。昔の記憶を振り払うように、依人は足に力を込め、更にスピードを上げた。


 依人は親水公園に辿り着くと、待ち合わせの時計台に向けて全力疾走した。


 時計台にいた千恵が依人を見つけ、軽く手を振るのが見える。


 自分も手を振ろうとしたその時、視界が曲がった。



 ぐにゃり。


 目の焦点が合わず、思わず倒れそうになる。全力で走ったせいか、景色が揺らいで吐き気がした。


 うっ……。何だ、これは。


 しかしここでみっともない姿を晒すわけにはいかない。依人には今日、重大な使命があった。


 依人は彼女の前まで何とか歩きだした。足が地面に着く感触がなく、ふわふわして気持ちが悪い。


 何とか平静さを保つため、目を一回閉じて開き、言った。


「ごめん、待った?」

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