プロローグ(表−1)「大事な話がある」
依人は朝焼けの道を、目的地に向かって駆け出している。ここは都心の住宅街。川沿いに居並ぶマンションの灯りが少しずつ消えてゆき、早朝の新聞配達に勤しむバイクの音が遠くで鳴る。依人は、前だけを見つめてひた走った。緊張と焦りで、心臓が早鐘を打つ。
急げ! このままでは、約束の時間に遅れてしまう!
依人は約束を守ることを、何よりも大事にしている。物心ついてから27年間、どんな些細な約束も守ることを己に課してきた。
依人は、人気のない川沿いの道を駆け抜けた。道は遊歩道となっており、ベンチや小さな花壇を避けながら走った。
これまで、一度だけ、たった一度だけ守れなかった約束がある。しかしそれ以外は、あらゆる約束を守ってきた。
昨日時間を確認するべきだったな。
依人は自分に舌打ちし、親水公園で待っているであろう彼女との会話を思い出す。
「大事な話がある」
先週、千恵との電話で、依人は言った。
「来週は君と付き合って5年の記念日だ。午前中から仕事があるから、朝6時に親水公園の時計台に来てほしい。かなり早い時間だが、来てくれるか?」
自分と違い、朝に弱い彼女のことを心配したつもりだったが、彼女は笑い、冗談めいた口調で返してきた。
「もちろんよ。受けて立つわ」
依人は心の中でガッツポーズをし、途端に緊張してきた。千恵とはこれまで長いこと一緒にいたが、確かな形でプロポーズをした事はない。
はっきりと伝えなければ、彼女はどこかへ行ってしまうかもしれない。依人と千恵は同じ孤児院で暮らし、小さな頃から一緒に過ごしていた。
同世代の子と比べ、なぜこんなに貧しく孤独な生活をしなくてはいけないのか。不満ばかりの俺に千恵は、「受けて立ってやろうじゃない」と言って笑っていた。俺は千恵を幸せにする。もらった笑顔の分だけ、返さなくてはいけない。
今日は、久しぶりに彼女に会う。
「髪よし、襟よし、靴よし」
今日のために買ったハイブランドのスーツの袖に、少し緊張しながら腕を通し、くすみのない時計を腕につける。パチンという音が心地いい。
「花束よーし」
気取りすぎない花束を指で確認する。
そして、最後に懐に手を伸ばし、ベルベットの小箱を開けた。
「……指輪よし」
大丈夫。いつもみたいに会いに行くだけだ。恐れることはない。
自分にそう言い聞かせながら、依人は新調したばかりの腕時計を見る。時刻は朝の4時半。
待ち合わせ場所の公園は自宅の近所だ。緊張のせいか、かなり早く起きてしまったらしい。コーヒーでも飲んで心を落ち着かせよう。
買ったばかりの腕時計は時刻合わせをしていなかった。約束の時間まで5分もないことに気づいた依人は家を飛び出し、目的地に向かってひた走る。
いつもは完璧に時刻を合わせるのに、なぜ今日に限って……!
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