第9話 「森のヌシ」
スピウスと名乗った青年は、狼を撫でる手を止め、いらいらとして首を振った。まるで、こちらの言うことは、とても信じられないと言いたげに。
「嘘をつくな。姫は死んだろ」
「私は長いこと、身を隠していたの。皆を騙すことになって、申し訳ないと思っているわ。でも、嘘じゃないの」
スピウスは、何か思案するような面持ちでカナリアを見た。あたりが、また静まり返る。カナリアが口を開きかけたその時、突然狼が唸った。スピウスはそれを見ると、狼に跨がり、手でふたりをせきたてた。
「狐が、森のヌシを連れてくる。離れるぞ!」
「なんだと!」依人は驚いて声を上げた。だが、狼はすでに前方へと走り出していた。
依人とカナリアは、その白い姿を見失わないよう、必死で追いかけた。
依人は目を凝らしながら、道なき道をひた走った。足元には大木の根が、大きく張っている。それに足を取られないよう、注意しなければならない。昨日までコンクリートを踏みしめていた革靴が、たちまち泥で汚れていく、
森の内部は、吸い込まれるような闇だ。月の光は木の影に隠れ、見えたり見えなかったりする。
あの白い狼は、依人を急き立てるように前方で吠えた。
「そうだな、パニ。足音がする!」
彼の言葉で、依人も足元が振動しているのを感じた。何かが大勢で、こちらにやって来ている。
「どこに向かっているんだ!」依人は叫んだ。
「この先に御神木がある。そこで怪物をやり過ごすぞ!」
その怪物が、森のヌシなのだろう。依人は言われるがままに青年の後を追いかけた。横ではカナリアが、息を切らしながらついてくる。
依人が後ろを振り向くと、大量の赤い目と、狐火が見えた。炎を纏った狐の群れが、カナリアの背後まで来ている。
「くそっ、仕方ねえ!」
スピウスは狼から飛び降りた。パニと呼ばれていた狼は、踵を返して狐の群れの方に駆けてゆき、鋭く吠えて彼らを蹴散らした。
「カナリア、無事か!」依人は、彼女のところまでやって来て聞いた。
「ええ、あの声で狐はいなくなったみたい。でも聞いて、さっきより大きな足音がするわ。何かが来る!」
パニが吠え、森の奥がざわめいた。闇を咲くような唸り声が聞こえ、依人はぎょっとして声の方を見た。巨大な爪を持った2本足の怪物が、月の光に照らされた。
ずんぐりと太い手足、爬虫類のような皮膚。両手についた長い爪が、あたりの葉を乱雑に切り裂く。眼は落ち窪んでいて小さく、口は横に大きく開く。時折あげる唸り声が、耳に突き刺ささった。
依人は驚きのあまり一瞬固まったが、すぐ我に返って走り出した。木の根や草を飛び越すようにかけてゆく。
「こっちだ! ここの御神木に触れている間、奴らは俺たちを認識できなくなる」
スピウスはそう叫んで、目の前の一際大きな大木に触れた。その瞬間、彼の姿は消えていた。
「おい、どこに行った!」
「どこも行ってねえぜ、この木に触っただけだ。この仕組みを、ヌシは理解してねえ。こっちに来い、やり過ごすぞ!」
大木から手を離すとスピウスが現れた。依人は必死で地面を駆け、大木に向かって手を伸ばす。手のひらに硬い樹皮の感触が伝わり、ほっとして大きく息を吐き出した。
緊張から一時的に解き放たれたような気分になり、気を抜くとその場に倒れてしまいそうだ。
「あっ!」
背後で、カナリアの悲鳴と、恐ろしい唸り声が聞こえた。依人は振り返った、依人のすぐそばまで来ていたカナリアが、木の根に躓き、怪物はその上で大きな爪を構えている。
「カナリア!」
依人は大木から手を離して走り出し、剣の柄に手をかけた。森のヌシは指から伸びる大きな爪をカナリアに振り下ろしたが、依人の剣がそれを弾いた。依人は夢中でカナリアを助け起こし、大木の元まで戻ると、一緒に木に触れた。
依人は呆然と、腰の剣を見た。初めて使ったはずなのに、自分の身体は剣の扱い方が分かっているようだった。
森のヌシは、姿が消えたことに苛立ったのか、唸り声を響かせ、やみくもにその爪を振り回していた。
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