ブラックホール内部

1

 コルトは暗闇の中にいた。漆黒な霧のような蠢いた中で、自分だけが放り出された気がした。

 はっきりとした自我はない。闇に自分が溶けていくような、なにかとくっついていなければ自身が存在しないように感じた。だが、それすら必要ないような、自意識がなくてもかまわない感覚があった。

 いつからそこにいたのか――そうした疑問もない。そこに過去も未来もない。時間の概念も失っているから、自分を構築する何かもなかった。



「コルト起きて、起きろ!」


 目が覚めると、地響きのような唸る音と、機械がいかれた電磁音が船の中で響いた。エンジンがいまにも爆発しそうだった。

 モニターに映る景色は黒く覆われ、度々画像が途切れる。

 危機的な状況であることを理解したが、意識はまだ半覚醒だ。

 一瞬だけ夢の中にいるみたいだった。

 これまでにない流体テレポーテーションの体感だ。ブラックホールの中に溶けたような、死を彷彿とする経験。ミィミィの声が無ければあのまま意識がなかった。全身に冷たい汗をかきながら、胸に手を置いて心臓が動いているのを確かめた。

 現実に、この世界に戻ってこれたということか。


 ――だが、その世界は絶望の真っ只中。

 目の前の視界を気にしつつ、ディスプレイを操作し、船の状態を調べる。

 画面横には船を上から見た図と、真横から見た四角い図が映っており、細かく切り分けている。二つの画像は、ともに後部側が真っ赤に染まっている。

 半壊ってところか。

「ごめん、後ろが残った」

 すかさずミィミィが謝った。

「想定内だ。リバーシスは縦長だから、事象の地平面に入る時点で被害がでるのはわかっていた。それより――」

 船の四方についたモニターを切り替えながら、外側をディスプレイに映し出す。


 これまで暗黒宙域に何度か入ったことはあるが、それでも光は手前まで映していた。だが、船の外は純然たる闇が広がり何も見えずにいる。

 船が生きているのが不思議なくらいだ。

「リバーシス、船の発電システムはそのまま、ロケットエンジンだけを切れ」

「コルト!」

「落ち着いて。どうせ引力が強すぎて抗っても流されるだけだ。壊れかけのエンジンを使うほうが恐ろしい」

 突然、船に激しい衝撃と轟音が鳴り響く。


「リバーシス、どうなってる!」

『機体上部に衝撃発生。くり返す――』

 抑揚のない無機質な音声が船内に木霊する。

『オート姿勢制御不能。シールド発生装置 稼働率50%低下、衝撃なおも継続中』

「状況はいい。それより何が起きた」

『巨大な何かが接触しました。可視化できません』

 ライトを照らしたが、光は周囲の闇に拡散し何も見えない。

「マイクロレーザーを出して形を分析できないか」

『上部のダメージの影響により、使用不能』

 コルトは悪態をついた後、瞼を閉じて闇の中を察する。

 もはや死者の世界に片足入れている。五感に頼っていては死ぬだけだ。


 感じろ。精神を研ぎ澄ませ。この装甲の外の世界を、操縦桿を通して探れ。

 なおも止まぬアラームに冷や汗を浮かべながら、はたと気づく。

 漆黒の世界で、上部を埋めるもう一つの黒色が自分を覆っていた。

「!」

 目を開けると速やかにディスプレイを叩く。

『ワイヤーウィンチセット。上後部ハッチ開きません』

「かまうな。下二本でどうにかする!」

「え、ちょ、どうするの?」

 そばでミィミィが首を振るが、説明する余裕はなかった。

 リバーシスのエンジン横についたワイヤーウィンチが、闇の中で発射された。先端に錨がついたワイヤーは秒で闇に溶けると、コルトはディスプレイにある、二つの数字がカウントされる様を目で追った。


 1、2……。


 次第に距離が伸びていく。50が限界距離。


 43.7。44.8。


 二種類の数字が止まったのを確認した後、ワイヤーを戻すボタンを軽く触れた。


『ウィンチ固定』

「リバーシス、ワイヤーを巻き上げろ」

『重量オーバー。船体が引っ張られます』

「それが狙いだ、早くしろ! 巻き込まれる!!」

 リバーシスが伸ばしたウィンチを巻いていく。船内がゴリゴリ音をたてて見えない綱を引っ張っているのがわかる。

「コルト、ほんとに隕石なの?」

 思考を読んだミィミィが尋ねるが、肯定も否定もない。

 コルトがスロウストの中で読み取ったのは巨大な丸い塊だった。


「全部断定だ、ブラックホールが周囲の物質を全て飲み込んでいたとすれば、俺たちがいる場所はその胃の中。爆発した惑星の破片や、隕石群そのものが吸い込まれてもおかしくない。むしろ――」

 説明しているそばから、上部の圧力がさらに加わる。リバーシスの警告音がさらに増したが、ワイヤーの巻き上げにより、いまの位置がずれたのかリバーシスが物体をかわした。

「俺はその真っ只中だとおもっている」

 次第にワイヤーの距離をカウントした数値が縮み、船が前方へ移動しているのがわかる。

「ミィミィ、いつでも転移できるよう準備して。船がいつ潰れるかわからない」

「でも! どこへいったらいいかわからないよ!」

「勘だ!!!  目が覚めたら俺も探る」

「あぁ!! もう無茶苦茶だよ!!」

 そんなことは来る前からわかってたろ!


 両親ともに馬鹿げている。死ぬ以外の選択がないじゃないか!

 回避したのもつかの間、すぐさま船内に衝撃が走り大きく揺れた。今度は真横から圧がかかり、船が斜めに傾いた。

 アラームは止まない。いっそのこと切りたいくらい。見えない世界に不安だけが蓄積する。

 振り切れ! 自分の感覚だけを信じろ。

 丸い漆黒が横から飛んで離れていく。上部と比べてサイズは小さいが、それでもリバーシスの船体をゆうに収まる。感覚を澄ましてワイヤーを辿ると、爪がささった先に凹凸のある隕石があるとわかる。

 やはり隕石群の中。

 序盤からして最悪だ。おまけに転移は残り一回ときている。

 さらに転移したときを思い出せば、ブラックホール内で流体になることも命がけだ。ここは物質も粒子も分子なにもかもドロドロになって溶けるような場所だ。暗黒宙域がマグマの噴射する火山口の地表なられば、ブラックホールはマグマそのもの。物体を維持するだけでも奇跡だ。


「寿命が尽きる前に運を使いきりたいところだな」

 皮肉を言ったあと、ウィンチの先端の爪を揺らして取り除く。いまは前方に隕石があるので、今度は下方向にウィンチを向ける。

「リバーシス! 錨が当たったらすぐに巻き上げろ。どこかに留まるほうが危険だ」

『失礼ですが船長。ここはどこも危険です』

「百も承知だよ!」

 怒鳴り散らした後、また瞼をとして周囲を窺う。

 かすかにワイヤーの細い線が伸びているのがわかる。最初は船の表面しか感じなかった暗黒物質だが、身体が慣れてきたせいかその範囲が広がっている。人類は宇宙に出れば感覚が研ぎ澄まされ能力が覚醒する、などという進化論はあながち間違いではない。

 それを立証できる命の保証はないけどね――

すぐさま瞼を開け「ミィミィ、転移!!」

「ちょ、待――」

「急げ! ここで死ぬぞ!」

 ミィミィが慌てながらペンダントの惑星コアを握る。


「リバーシス、周囲にバリア展開」

『制御装置が壊れています』

「衝撃に備えろ!」

 真下から激しい揺れが起こり、コルトとミィミィの身体が斜めに揺れる。それと同時に背後からも衝撃が走り、エアーが吹き出し甲高いアラートが連続して鳴り出す。

 目を閉じたコルトは、斜め上空からさらに巨大な隕石が接近していることがわかり――そこで意識が途切れた。

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